獣医学論文を「わかる言葉」に変える、老舗出版社の新たな試み

文:尾形聡子


[photo by Monikasurzin]

論文は読めても、理解できるとは限らない

最近は、科学専門誌を購入しなくても、インターネットで無料アクセス可能な論文が増え、世界中で行われている研究そのものに触れやすくなってきました。さらに、英語の論文であっても、機械翻訳を使えば以前よりずっと気軽に日本語で読むことができるようにもなりました。犬の病気や行動について調べていると、飼い主が論文そのものにたどり着く機会も、少しずつ増えてきたのではないでしょうか。

けれども、そこで次に立ちはだかってくるのは別の壁です。論文自体は「読める」ようになっても、「理解できる」とは限りません。専門用語が並び、その背景にある知識をある程度持っていることを前提として書かれているため、その分野の研究者ならば通じる文脈が、慣れていない読者には見えにくいのは当然です。英語を日本語に置き換えればそれで理解できる、というほど、単純なことではありません。

そんな中、獣医学分野で最近、イギリスを拠点とする学術書や学術誌の出版社であるTaylor & Francis社によるちょっと面白い試みが始まりました。研究論文の内容を、飼い主やブリーダー、獣医療に関わる人たちにも理解しやすい形で届けようとする「Plain Language Summary of Publication」というものです。直訳すれば「平易な言葉による要約」といったところでしょうか。ただ、今回私が目にしたものは、単に論文を短く、わかりやすく言い換えたもの、という印象ではありませんでした。むしろ、論文と読者のあいだにどうしても生じる距離を、少しでも縮めようとするための工夫が、かなり本気で詰め込まれていたからです。

獣医学分野で最初に公開された「Plain Language Summary of Publication(以下、PLSP)」は、犬のアトピー性皮膚炎に関する研究でした。アトピー性皮膚炎は、皮膚のかゆみや赤みを主症状とする慢性的な炎症性疾患で、犬では決して珍しい病気ではありません。その元となった論文は「Frontiers in Veterinary Science」に発表されています。約29,000頭の犬の遺伝情報を用いて大規模な解析が行われ、SLAMF1という遺伝子の変化が犬のアトピー性皮膚炎の発症リスクに関わる可能性があることが示されました。フレンチ・ブルドッグやボクサーなど複数の犬種で関連が確認され、今後の病態理解や治療標的の探索につながるかもしれない、という内容です。ただ、今回注目したいのは、この研究結果そのものよりも、それをどのように伝えようとしていたのか、という点です。

Taylor & Francis社の雑誌「Veterinary Quarterly」には、この論文に対応するPLSPが掲載されていました。しかも、原著論文とPLSPでは筆頭著者が同じで、要約の執筆や編集にも複数の原著著者が関わっています。研究内容を最もよく知る側が、一般の読者に届く形へと書き直そうとしている点も、この試みの興味深いところです。さらにPLSPの冒頭には、次のように明記されていました。

The purpose of this plain language summary is to help dog owners, dog breeders, and veterinary professionals understand the findings from recent research.(この平易な言葉による要約は、犬の飼い主、ブリーダー、獣医療従事者が、近年の研究成果を理解する助けとなることを目的としています)

つまりこれは、最初から「犬の飼い主」「ブリーダー」「獣医療従事者」に向けて書かれた文章だということです。研究者間での情報共有ではなく、研究の外側にいる読者にも届くことを目指した要約であることが明言されています。獣医学分野でこのような試みが始まったこと自体興味深いのですが、実際に読んでみると、なるほどこれはたしかに、研究者の所属機関からのプレスリリースやニュース記事とは毛色が少し違うと感じました。


[photo by kobkik]

「結果の要約」ではなく、「理解のための足場」

では、何が違うのか。ひとことで言えば、「結果だけをやさしく言い換えた」のではなく、その研究を理解するために必要な足場まで一緒に書かれているところです。

たとえば、今回のPLSPには、犬のアトピー性皮膚炎とはどのような病気かという説明があります。遺伝子とは何か、DNAとは何か、染色体とは何かといった、ごく基本的な用語の説明もあります。しかも、英語ではありますが、それらの科学用語の発音の仕方までも書かれていました。

そのうえで、どんな犬を対象に調べたのか、何を比較したのか、どういう流れで原因になる候補遺伝子を絞り込んでいったのかも、図を交えながら、短い文章や箇条書きで整理されています。さらには、「この要約はひとつの研究を紹介したものであり、獣医療従事者はこれまでのあらゆる研究に基づいて判断すべきである」といった注意書きまで添えられていました。

論文を難しく感じる理由は、単に英語だから、あるいは専門用語が多いから、というだけではありません。前述したように、論文はそもそもその分野の研究者に向けて書かれるものであるため、研究の背景、その方法を使う理由、重要なポイントなどについては、ある程度わかっている前提になっています。今回の原著論文にも、GWAS、SNP、スプライスドナー変異などの用語が出てきますが、これらは日本語に訳しただけでは、なお意味がつかみにくい言葉です。何を調べるための手法なのか、なぜそこに注目したのか、どんな意味のある変化なのか。それらが見えないままでは、言葉として読めても、内容としてはなかなか頭に入ってきません。

その点、今回のPLSPは、論文の内容を単純化しているというより、「その研究を理解するための入口」を整えようとしているように感じました。研究結果そのものをなるべく易しい言葉で言い換えるだけではなく、複雑で専門的な研究結果を、飼い主やブリーダーなど、それを必要とする人たちの理解へとつなぐ橋渡しをしようとしているのです。

一般の人々が専門的な研究に触れることのできる入り口は確かに広がっています。しかし、そこから中に入っていけるかどうかは、また別の問題です。今回のPLSPを読んで、私はそのことについてあらためて考えさせられました。

知りたいことを知るために

実際、一般の読者が論文の中で知りたいのは、その研究が犬との生活や健康管理にどうつながるのか、ということではないでしょうか。その上で、なぜその研究が行われたのか、これまでに何がわかっていて、何がまだわかっていなかったのか。今回の結果はどのくらい確実性が高いのか、どこまで言えて、どこから先はまだ仮説なのか。そうしたことまで見えて初めて、その研究が持つ意味を、自分の中で整理し、受け止めることができるのではないかと思います。

しかし、そのような背景や位置づけまでを原著論文だけから読み取るのは簡単ではありません。研究者の所属機関から出されるプレスリリースや科学サイトなどのニュース記事は、その助けになることもありますが、研究の面白さや新しさを伝えることが主眼になりやすく、どうしても限られた情報に絞られます。論文を理解するための足場というよりは、結果の見どころを短く紹介する役割に近いことも少なくありません。

その点、今回のPLSPは、研究を「ニュース」として紹介するのではなく、「研究そのものに近い場所へ読者を連れていく」ための文章として作られているように感じます。研究結果を単純に短くするのではなく、その研究を理解するために必要な情報をあらかじめ補い、どこに注目して読めばよいのかを示してくれています。研究と一般読者のあいだに橋を架けるというのは、こういうことなのかもしれません。


[photo by Clarke Sanders]

科学を「難しいもの」と決めつけないよう

老舗の学術系出版社によるこのような取り組みが広がっていくことには、やはり大きな意味があるように思います。犬の病気や行動に関する研究は、本来、研究者だけのものではありません。診療の現場にいる獣医師はもちろん、犬と暮らしている飼い主や、繁殖に関わるブリーダーにとっても、知っておく価値のある知見はたくさんあります。だからこそ、その内容を専門家だけのあいだに閉じ込めず、必要としている人のところまで届く形に整えていくことには価値があると感じます。

研究に触れようとしたとき、難しい専門的な論文を読んで最初の数歩でつまずいてしまえば、その先へ進もうという気持ち自体がしぼんでしまいます。けれども、背景や基本用語、研究の流れが少しでも見えるだけで、論文はずいぶん身近に感じられるものになるかもしれません。全部を理解できなくてもいい、まずは何が書かれているのかをつかめればいい、そう思えるだけでも研究との距離はかなり変わるはずです。

私自身、犬に関する論文を紹介する記事を長年書きながら、単に日本語に訳すだけでは伝わらないと感じることばかりです。研究には、その結果だけでなく、そこに至る背景や文脈、限界まで含めて初めて見えてくるものがあるからです。だからこそ今回のPLSPを読んで、論文を公開することと、論文が伝わることは同じではないのだと、あらためて実感しています。

【参考文献】

Discovery of A SLAMF1 Gene Change That Increases Dogs’ Risk of Developing Canine Atopic Dermatitis: a Plain Language Summary. Veterinary Quarterly. 46(1):2670342. 2026

A splice donor variant in SLAMF1 is associated with canine atopic dermatitis. Frontiers in Veterinary Science. 12:1550617. 2026

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