文と写真:尾形聡子
コロナに翻弄されながらの暮らしは気づけば1ヶ月、そしてまた1ヶ月と瞬く間に過ぎ去っていった。いつしか季節が一巡し、早いものでタロウがこの世を去ってから1年が過ぎた。その間にハナは16歳を迎え、すでに17歳が近づいてきている。
タロウが亡くなった後のわずかな間はそれまで通りの感じで生活していたものの、ハナの活力が急速に低下していったのは「老犬に真新しい楽しみをつくる」でも触れた通り。まだまだ暑くなる前のことだから、季節はあまり関係なかったと思う。
しかし幸いにも、涼しくなっていくとともに少しずつ活力が戻り始めた。1年前と同じレベルには程遠いけれど、それでも嬉しい。元々10月くらいのある時点を境に一気に活力が戻るタイプではあったが、老化は容赦無く進んでいるから、気温が低くなったところで必ずしもそうなるとは限らないと思っていた。
一方で、活力が戻ってきた理由は気温のせいだけではないとも感じている。ずっとタロウと一緒だったハナにとって、彼が日常からいなくなることは今までで一番大きな環境の変化だったに違いない。だからむしろ、タロウのいない生活に慣れてきたことの方が割合として大きいかもしれないと思う。
たとえばネコ。ネコを追いかけたい誘惑に最後まで翻弄され続けたタロウを横目に見てきたハナは、タロウより先にネコを見つければ、タロウに猫を追いかけてごらんとけしかけたり、タロウを挑発するかのように自ら吠えたてたりしていたものだった。しかし今やそんな姿はまったく見られない。鼻先にネコがたたずんでいても「私はあなたの存在など露も知りません、まったく視界に入りません」と言わんばかりに、ものの見事にスルーする。
散歩中に会う犬に関しても変わった。ハナはある程度の年齢になると、タロウ以外の犬にほぼ興味を示さなくなった。しかし活力が戻ってきてからというもの、散歩ですれ違う際に気になる相手とは挨拶を交わすようになったり、お気に入り(と勝手に私が思っているだけかもしれないけれど)のサルーキーの男の子ができたり、面倒な子犬の相手をしてみたりと、自発的にコミュニケーションをとるようになった。ただ、タロウがいなくなり犬としての「群れ」がなくなったためか、歳のせいもあるためか、滅多なことでは吠えなくなった。飼い主としてはありがたいけれど、たまにしか吠えない声が掠れてしまっているのを聞くと、悲しみが心をかすめていく。
加齢によって性格や行動の傾向が変化していくことは近年の研究により示されている。「加齢によって犬の性格はどのように変化していくもの?」などで紹介しているが、ハナも例外ではない。タロウがいない生活を続け、時間はかかっても性格や行動を今の環境に適応させていっている姿を見ると、犬の社会性の高さを実感する。良くも悪くも、そういう逞しさというか、順応性の高さは私が入院したときにもそういえば強く感じたことがあった。今は、おばあちゃんになってもそんな柔軟性を見せてくれるハナをカッコイイと思う。私の方がまだ環境の変化に対応しきれずモタモタしているのかもしれない、とすら思わされる。
そう、そして思い出したのが、藤田りか子さんの記事にあった、
という言葉だ。犬を信じることは自分を信じることでもあるように思う。
振り返ってみれば、私自身完璧な飼い主とは程遠かった。犬たちにやってあげたいと思うことの半分もできてこなかったし、それに対して申し訳ないと自責の念に苛まれることも多々あった。けれど今はそんな気持ちになるようなことはない。言い訳めいているように聞こえるかもしれないけれど、むしろ、自分が考えられるすべてをやったなんて思えるのは単なる自己満足に過ぎないのかもしれないし、もしかしたら鬱々と考え込んでしまっていた時期は共依存の関係に片足を突っ込んでいたのかもしれないとも思える。
私も犬も完璧じゃない。でも、お互いに信じ合える関係には不安や恐怖はない。ともに過ごしてきた年月の集大成ともいえる今を、日一日、元気に一緒に過ごせることこそが究極の幸せなのかもしれない。
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