文と写真:アルシャー京子
誰しも疾患を持った犬を飼いたいと思うものなどいないはずだ。あらかじめ疾患を持っている犬の里親募集などでない限り、これから迎え入れる犬にはできるだけ健康で楽しく長生きして欲しいと望んでいるのが普通だろう。
スイスやドイツで股関節形成不全症根絶のための対策が始められた当時、メディアを通して股関節形成不全症が遺伝疾患であることやこの疾患により辛い経験をした話などが一般に流れ、それ以来買い手自身が繁殖の健全性をこと気にするようになった。
股関節形成の健全性を血統書に明記することにより、ブリーダたちはC評価の犬を繁殖から避けるようになり、特に種牡の場合には相手のメスを見つけることがほぼ無理となったため、繁殖には常にAまたはB評価の個体しか用いられなくなった。
これがなによりこれらの国で股関節形成不全症の発症状況が激減した最大要因といえるだろう。
この十年ちょっとの間に獣医学的な技術も進歩し、昔に比べ正確な診断が比較的容易にできるようになったこともまたもちろん大きなサポートである。
またこれらの国ではペットショップ・大型繁殖場などの売り切り型犬販売システムが存在せず純血種はブリーダーから直接譲り受けるのが普通で、譲渡後も飼い主とブリーダーの付き合いがあるのが通常である。そのため譲り受けた犬が HD などの疾患に罹った場合にもそれがブリーダーへ情報としてフィードバックされやすいという利点がある。
[Photo from de.wikipedia.org] スイス式股関節形成不全症診断の基準となる「ノーベルグ角度」。大腿骨頭の中心と寛骨臼との角度が105度以上であれば正常と診断される。写真のものは中度の股関節形成不全症。
ツフトヴェルトという概念
聞きなれない言葉「ツフトヴェルト(Zuchtwert)」とはドイツ発祥のもの、英語では「ブリード・ワース(Breed worth)」、日本語に訳すと「繁殖価値」といい、もともと家畜業界で使われる専門用語であるが、個体の持つ遺伝子の表現型を世代を以て測ることにより遺伝子型を推測評価するという昔ながらの方法である。
犬に応用した例では盲導犬や警察犬などが良い例として挙げられるだろう。使役犬の親犬の持つ能力と健全性がどれだけ子孫に伝わっているかを総合的・客観的に評価するために用いられ、たとえ使役能力が高くても子孫に股関節形成不全のような疾患を抱える個体が多く出るのではツフトヴェルトは下がり、その逆にどんなに健全でも子孫の使役に対する能力が劣っていればその目的を果たすことにならず、やはりツフトヴェルトは下がるという仕組みになっている。この方法では親犬の評価は数年かかって出されることになる。
つまり股関節形成不全に関して言えば現実的には親犬に発症がなくても交配により次の代で出てくることがあるため、愛犬の情報をブリーダーにフィードバックして親犬を評価する必要があるということ。フィードバックの情報数は多ければ多いほどいい。これは直接愛犬自身のためではなく、愛犬の親犬から生まれる(た)兄弟犬への評価予測ということになる。血統書に HD 発症の記載を行うだけでなく、同時に繁殖犬を評価し繁殖に用いる犬を選び抜くというのは遺伝病根絶のための最重要課題なのだ。
なによりこれはブリーダーと飼い主そして獣医師の一貫した協力によるもの。もちろんそこには良い情報だけでなく、悪い情報すらも寄せられなければ意味はない。犬を中心にして誰もが健全な将来を望むこと、これがこのプログラムの機動力となるのである。
ありがちな繁殖犬の選択方法であるショーの成績。これだけでは犬の健全性は判断できない。仮に有名なチャンピオン犬のオスに遺伝子疾患があった場合、その子孫へのリスクはメス犬の場合よりも格段に大きい。
難しい話はほどほどにして、ともかくこのブリード・ワースという概念を用いドイツのいくつかの犬種クラブではすでに、そしてスイスのバーニーズマウンテンドッグ・クラブやホワイト・シェパード・クラブ、バセット&ブラッドハウンド・クラブ、この数年ではレトリーバー・クラブとシェパード・クラブも導入し、繁殖した犬の子孫の情報を出来る限り集め、遺伝病対策に効果を挙げている。
股関節形成不全症の犬に最も良い運動は水泳。浮力のお陰で関節にかかる負担が少なく、そして全身で運動ができる。暑い季節にはぜひともおすすめしたい(でもやりすぎには当然ご注意を!)。
将来有望なゲノミック・セレクション(genomic selection)
遺伝疾患といいつつ、股関節形成不全症へ決定打となる遺伝子部位は実のところまだ特定されていない。特定されていないながらもすでに疾患が現れている個体の DNA と親犬の DNA との関連性によりだいたいの見当が付いている現在、「遺伝子的なツフトヴェルト」という概念が現れた。
この遺伝子的な情報を遺伝子疾患の対策に用いるということは、これまで問題であった飼い主による協力を得なくても、仔犬の段階でブリーダー自身が繁殖結果を得ることができるというものである。これまでのように「生後何ヶ月でレントゲン写真を撮って診断結果を知らせてください」などと譲渡先にお願いしなくてすむうえ、親犬の評価を出すまでの時間も短縮されるのだが、ますますブリーダーの責任は重大になってくるともいえよう。
と、まあ、スイスやドイツではこのようにブリーディングに対しての取り組みを見せているわけだ。
2011年には EU圏では犬への個体識別方法としてマイクロチップの装着が義務付けられることになり、そうそうデータもごまかせなくなったことだろう(イギリスでは個体識別のための刺青もマイクロチップも充分普及していなかったことから、過去にはデータのごまかしなどが日常茶飯事でもあった)。
もちろんこの話は股関節形成不全症に限ったものでなく、その他の遺伝病に対しても同じである。遺伝病を持つ犬は「ずさんな繁殖管理」の結果としてそろそろヨーロッパ社会に認識されてきているほか、その割を食うのが犬とその飼い主というのは誰が聞いてもちょっと酷すぎる話だからリアクションもそれ相応といえるだろう。
(本記事はdog actuallyにて2009年4月24日に初出したものを一部修正して公開しています)
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