チェルノブイリ立入禁止区域で生き延びてきた犬たちのDNAが初めて調査される

文:尾形聡子


[photo by Engyles] チェルノブイリに残された犬は今もなおその命を繋いでいる。

1986年4月26日、旧ソ連にあるチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が起きてからもうすぐ37年。この壊滅的な事故により、爆発の起きた原子炉から半径約30km圏内の地域(現在のウクライナ北東部とベラルーシ南部にかけて)は高濃度に放射能汚染されたため、「チェルノブイリ立入禁止区域」として現在も厳しく立ち入りが制限されています。事故により軍事施設や産業施設が放棄され、発電所の清掃や修復作業が行われた結果、放射性物質以外の有害な金属や化学物質、化合物による環境汚染がさらに進行しました。

人はもとより自然界への影響も甚大なものでした。事故が起きた直後は大量に降り注いだ放射性物質がその周囲に残された動物や植物を死に追いやり、生き残った動植物には奇形化が見られるなどの報告がありました。しかし年月が過ぎていくにつれ生態系を取り戻しはじめ、事故後30年経ったときには立入禁止区域にはさまざまな野生動物がその数を増やしており、高い放射線量よりも人に脅かされることのない環境が個体数の増加に影響しているのではないかと考えらえられているそうです(参考:ナショナルジオグラフィック「事故から30年、チェルノブイリが動物の楽園に」)。

事故から30年、チェルノブイリが動物の楽園に
原発事故後、人の姿が消えた立入禁止区域に野生動物が増えている。人間の脅威がなくなった点が指摘されているが、放射能の影響については議論が割れている。

事故の被害を受けたのは自然界の動植物だけではありません。かつてそこに暮らしていた住民が避難の際に置き去りにされた犬たちも然りです。そのような犬たちは放射能汚染の拡散を防ぐ目的で殺処分が行われました。しかし、捕獲の網をかいくぐって逃れた犬たちが野生化して群れをつくり、清掃作業員などに餌をもらいながら自由繁殖を続けて生き延びてきたと考えられています。なぜ生き延びることができたのか?これらの犬たちのDNAには放射能汚染から生き延びるためのヒントが隠されているかもしれません。

アメリカのサウスカロライナ大学のTimothy Mousseau教授は事故の10年後くらいからチェルノブイリに赴き研究を続け、2017年より野良犬たちの血液採取を始めました。その頃チェルノブイリでは野生化した犬が増加し、800頭を超えると推定されていました。その後さまざまなアメリカの大学や研究機関と共同研究を行い、先日2報の論文を立て続けに発表しました。ひとつはアメリカの国立ヒトゲノム研究所(NHGRI)が主導し、もうひとつはノースカロライナ大学が主導したものです。


[photo from Adobe Stock]チェルノブイリの立入禁止区域の様子(Chernobyl Nuclear Power Plant in Chernobyl Exclusion Zone)。

チェルノブイリ立入禁止区域の犬は他の地域の犬と遺伝的に異なる

国立ヒトゲノム研究所主導の研究では、チェルノブイリ立入禁止区域内(発電所周辺、発電所から16km離れたチェルノブイリ市)に暮らす犬、そして比較的汚染の少ない45km離れた地域に暮らす犬、合計302頭から血液をサンプリングして遺伝子構造を調べ、親族関係の分析が行われました。その結果、立入禁止区域内の犬たちは15家族に分かれることが示され、もっとも多い頭数が属する家族は302頭中233頭(77%)いて、血液サンプルを採取したすべての場所に存在することがわかりました。これは、発電所とチェルノブイリ市の間を犬が移動していたことを意味します。

そして、チェルノブイリの犬、純血種162犬種、隣接するいくつかの国と中東やアジアなど12カ国の自由に繁殖している野良犬のゲノム解析から、立入禁止区域の犬は世界中のどの犬とも遺伝的に異なっていることが示されました。また、発電所周辺とチェルノブイリ市の個体群との間にも遺伝的な相違が見られたことから、異なるレベルの被曝により遺伝的に分かれた可能性が考えられると研究者らは言っています。

チェルノブイリ立入禁止区域の犬は遺伝的に異なる集団を形成している

ノースカロライナ大学主導の研究は前述の研究と並行して行われ、発電所周辺とチェルノブイリ市とその周辺に生息する自由に繁殖する犬の2つの集団に着目し、それぞれの遺伝的な構造を調べました。30年以上にわたり、放射能をはじめとする複数の環境ハザードに慢性的に暴露するという厳しい環境下において、犬がどのように適応して生きてきたかを理解するためのヒントを得ることを目的としていました。

こちらの研究では、発電所周辺の犬60頭とチェルノブイリ市の犬56頭を対象に前述の研究より詳しくゲノム解析しました。その結果、2ヶ所の場所は16kmしか離れていないにもかかわらず、それぞれの集団の間の遺伝子流動(ある集団から別の集団への対立遺伝子、あるいは遺伝子の移動のこと)はほとんどみられませんでした。グループをまたいだ交配が滅多に行われてこなかったということです。

また、集団間で異なる391の遺伝子座を発見し、そこから165の遺伝子を特定、そのうち52の遺伝子は原子力発電所の環境汚染への曝露と関連する可能性がある働きを持つ(DNA修復や免疫機能など)遺伝子であることがわかりました。

英語になりますが、以下の動画より今のチェルノブイリで生き延びている犬たちの様子をご覧いただけます(今回紹介しました研究とは関連ありません)。

今回の結果から、2つの集団になぜ顕著な遺伝的な違いが生じているのかを知ることが重要だと研究者らは言っています。その違いが遺伝的浮動(集団の大きさが小さい場合、あるいは季節や飢餓などの要因によって集団が小さくなったとき、偶然性によってある遺伝子が集団に広まる現象)により起きたのか、それとも生活する環境の汚染から受けるストレス要因によるものなのかがわからないからです。

チェルノブイリの事故のような大災害が動物の集団にどのような影響を与えるかを理解するために、今回特定された遺伝子変異が、さまざまな環境汚染物質に何世代にもわたって暴露されてきた後でも生存できる生物学的な反応であるかどうかを明らかにしていくことを目指すと研究者らは言っています。

そして、事故現場周辺に残された犬たちの遺伝情報を解析し、悲惨な人災により体の中で何が起こり、どうしたら生命を守れるのかを解明するために、今後もさらなる研究が続けられるそうです。

いずれにせよ、このような事故は二度と起こしてはならないものです。ですが、過去の教訓として受け止め、そこからの情報を最大限利用して人知を尽くし、未来に役立てていくことは大切だと感じます。

【参考文献】

The dogs of Chernobyl: Demographic insights into populations inhabiting the nuclear exclusion zone. Science Advances. 2023 Mar 3;9(9):eade2537.

Population dynamics and genome-wide selection scan for dogs in Chernobyl. Canine Medicine and Genetics. 2023 Mar 8;10(1):1.