文:尾形聡子
[photo by Jorge Franganillo] 2017年、チェルノブイリ立ち入り禁止区域内にて。
地球温暖化、森林破壊、海洋汚染など地球上ではさまざまな環境問題が生じ、生態系を脅かしています。中でも極端な環境汚染の例といえるのが1986年4月に起きたチェルノブイリ原子力発電所での爆発事故です。事故からもうすぐ39年。事故直後、最も汚染の激しかった発電所周辺30km圏内は立入禁止区域とされ、そこの住民と一緒に生活を送っていた犬たちは取り残されることになりました。
取り残された犬たちは、放射能汚染の拡散を防ぐという目的のもと捕獲され、殺処分が行われましたが、そこから逃れて生き延びてきた犬たちがいました。そして自由繁殖をつづけ、災害当時の犬たちから30世代以上も離れた集団が今できています。人で考えると事故から何世紀もたった後の世代の集団とも言えるでしょう。放射能や重金属などの環境汚染物質は永続的な影響を及ぼす可能性がありますが、長期的かつ何世代にもわたった生物への遺伝的な影響を把握するのは難しく、まだ全容の解明には至っていません。
以前、以下の記事にて2017年に始まったチェルノブイリの犬たちのゲノム研究を紹介しましたが、同じくアメリカのさまざまな大学からなる研究チームがさらに研究を続けて新たな研究結果を発表しました。その続報について今回紹介したいと思います。

これまでの研究でわかったこと:集団間の大きな遺伝的差異
上の記事で紹介した研究で明らかになったのは、事故現場の発電所周辺に生きてきた犬たちと、そこから16kmと地理的に近いチェルノブイリ市の犬たちとの集団の比較をしたところ、遺伝的に大きな違いがあったことです。2つの集団の間には391の異なるゲノム領域があり、その中で特定された165の遺伝子のうちの52の遺伝子はDNAが損傷した場合に修復する役目を持つ遺伝子や免疫機能の維持などに関わる遺伝子だったため、環境汚染への暴露との関連性が示唆されました。
しかしながら、距離的にそれほど離れていないにもかかわらず、2つの集団間には遺伝子の移動(遺伝子流動)がほとんど見られませんでした。集団をまたいだ交配がほとんど行われてこなかったということです。遺伝的に集団の差があるのは明確になったものの、それが生活環境にある汚染物質から受けるストレスによって生じた遺伝的な変異だったのか、あるいは遺伝的浮動と呼ばれる、集団が小さいときに偶然的にある遺伝子が集団内に広まる現象が起きたのかまでは突き止めることができませんでした。
[photo by LukVFX]
今回の研究からわかったこと:集団間の遺伝的差異は放射能による突然変異が主原因ではない
自由な繁殖が可能な地理的に近い2つの犬集団において、どうしてこれほどまでに顕著な遺伝的な差異がつくられたのか、それが放射能などの環境汚染物質への曝露が何世代にもわたって続いたことが原因となっているのかどうか?
その原因に一歩でも近づくために、研究者らは環境汚染物質が影響を及ぼすとされている、染色体レベルでの変化とDNAレベルでの変化をより詳細に調べました。
まずは、染色体のレベルで構造や数に異常が生じていないかどうかを調べる核型分析が行われました。核型分析とは染色体の欠失や重複、染色体の断片化、転座(染色体の一部が別の染色体に移ってしまうこと)などが起きていないかどうかを調べる方法です。
つぎに、染色体を構成するDNAにおいて、ショートタンデムリピートとマイクロサテライトと呼ばれる特定の塩基が繰り返される配列での多様性解析を行いました。これらの配列は個体により反復回数が異なることが多く、それが遺伝的多様性を示すマーカーとなるためです。多様性解析で集団内の遺伝的構造や遺伝的距離を解析すると、遺伝子流動や進化の過程を理解する手がかりを得ることができます。親子鑑定や個人識別などにも使用されている方法です。さらに、DNAの塩基配列のひとつが別の塩基に置き換わる一塩基多型の発症頻度を調べるためにSNP解析を行いました。とくに、卵子や精子などの生殖細胞系列に突然変異が生じると親から子へとそのDNA変異が受け継がれていくことになるからです。
これらの解析の結果、発電所周辺の犬集団とチェルノブイリ市の犬集団の間には染色体異常、DNAの多様性の増加あるいは生殖細胞系列での突然変異の増加率などにおける違いは見つかりませんでした。これらの地理的に近い2集団における遺伝的な大きな相違は、意外にも、突然変異が増加し蓄積したことによるものではないことを示唆する結果となりました。放射能や環境汚染物質は染色体やDNAに損傷を与え、構造異常やDNAの突然変異を引き起こす可能性があることはすでにわかっているのですが、少なくとも今回の結果からは2集団の犬たちの遺伝的な差異が生じた主な原因は、放射能など環境汚染物質の暴露量の違いである可能性は低いことが示されたのです。
[photo by Ian Bancroft]
染色体構造や遺伝子レベルで証明することのできる変異は見つかりませんでしたが、ただし、2集団の遺伝的な差異がつくられるには何かしらの遺伝的な選択圧がかかった可能性はまだ排除しきれないと研究者らは述べています。そもそも事故後に繁殖できるまで生き延びることのできた発電所界隈の犬たちは、DNAを修復する遺伝子がたとえ変異してもそれ以上に生存能力を高める遺伝的な特徴があった可能性がないとは言えないためです。その遺伝的な特徴が何であるかは、現在の研究ではまだまったく知られていない驚くようなものかもしれません。
チェルノブイリの犬たちの遺伝的状態の長期的な変化とその背景についての研究は、環境汚染物質への長期的な暴露が世代を経てどのように影響してくるのかを解明したり、異なる暴露要因による影響の違いを評価するためにも重要です。それは犬だけでなく、そのほかの動物、植物、そして人における環境汚染物質への曝露の影響に関する研究へも役立てていくことができます。突然変異が一代限りで終わらないとき(生殖細胞系列に影響が及んだとき)、長期的な生態系への影響を理解することは、チェルノブイリに限らず地球全体の環境問題を考えていく上でも非常に重要だと感じます。アメリカのこのチームでは今後も研究を続けていくそうなので、また続報が発表されたらお知らせしたいと思っています。
チェルノブイリの原発事故は世界最悪の人災と呼ばれています。二度と起こしてはならない事故ですが、人が作り出してしまった惨禍から学べることは学び、今後、環境汚染の改善へとつなげていくことができるなら、地球の未来を少しでも明るいものにしていけるのではないか、そのようにも思うものです。
【参考文献】
【関連記事】
