文:尾形聡子
[Photo by Kevin Quezada on Unsplash]
犬が家畜化されたのは一万年以上前のこと。地球上で最も早く家畜化された動物である犬について、その起源や家畜化のプロセスについての謎を解明すべくさまざまな研究が行われてきています。それでも未だ、犬の家畜化に関してはわかっていないことが多々あります。
そのような中、犬のオキシトシン研究で世界的にも有名な麻布大学の菊水健史教授率いる研究チームは、犬の家畜化を促進した可能性のある新しい遺伝的な手がかりを発見しました。
人とのコミュニケーション能力の高さは犬の特徴
犬の大きな特徴のひとつに「人と双方向のコミュニケーションがはかれる」ことが挙げられます。オオカミとの比較研究において、犬の認知研究の世界ではかの有名な「指差し」実験により実証されています。そこでわかったのは、犬は人からの信号をよりよく理解し、それに対して行動できることでした。そのほかにも人に対する攻撃性の低さ、人との絆を形成する能力など、犬は進化の過程で人と一緒に暮らすための能力を獲得してきました。
オオカミから犬に進化した背景には、オオカミとは異なる遺伝的な背景が存在していると考えられています。社会性という点からみると、人を怖がらずに懐いてくるという犬の社交的な特徴は、人のウィリアムズ症候群(人懐っこさもこの疾患の特徴のひとつ)を発症する原因となる遺伝的背景と類似していることなどがわかっています。
また、社会的行動は脳内のさまざまなホルモンの作用によって調整されていますが、それらの働きなどに関与する遺伝子の変化が犬の家畜化の背景にあるとも考えられています。ホルモンの中でも、ストレスホルモンとして知られているコルチゾール(グルココルチコイド)や、絆形成に関係するオキシトシンなどが有名です。オキシトシンに関する研究は数多く、たとえば、困ったときに人に助けを求める行動は、オキシトシンの感受性の強さに依存していることが示されています。
研究者らは、犬の家畜化に関係する重要なホルモンとして、コルチゾールとオキシトシン、前述しましたウィリアムズ症候群に関係するWBSCR17遺伝子、そして、メラノコルチン2受容体(MC2R)の4つの遺伝子に着目します。MC2Rはストレス反応を制御するメカニズム、視床下部―下垂体―副腎系(HPA axis)において、副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)の受容体として、コルチゾールの産生過程に関与している遺伝子です。
研究者らは、家庭犬624頭に対して社会的認知能力をはかる2つの課題を与え、さらに、これら4つの遺伝子の一塩基多型が犬の社会的認知能力の程度と関連があるかどうかを調べました。
[Photo by Rebekah Howell on Unsplash]
認知テストと4つの遺伝子との関係を調べる
2つの課題は「二者択一タスク」と「解決不可能なタスク」。二者択一課題においては、実験者の両側に置かれたボウルの片方に、食べ物が隠されているというもので、食べ物の入っている方のボウルをトントン叩く、指差す、視線を向けるという3種類の合図を送ることで、犬に食べ物の入った容器を選択させるというものです。解決不可能な課題では、犬が自ら開けることのできない容器の中に食べ物を入れ、それを取り出すためにどのような行動を取るか(視線を人に向けるなど、どれだけ人に頼ろうとするか)が調べられました。
また研究者らは、参加した犬を「古代グループ(秋田やシベリアン・ハスキーなど遺伝的にオオカミに近いことが示されている犬種)」と「一般グループ(それ以外の犬種)」とに分け、2つの課題の結果と4つの遺伝子の一塩基多型との関連性を調べました。
2つの課題、まず「二者択一タスク」においては、正解率や人が出す3種類の合図を理解する能力にグループによる違いはありませんでした、一方で「解決不可能なタスク」においては、古代グループの犬は実験中に人の方を見る頻度が有意に少なかったことが示されました。つまり、人からの合図に対する理解力に差はなかったものの、問題が解決できないときに人に依存しようとするかしないかに差があったということです。ちなみに同様の実験を行うと、オオカミも人への依存度が低いことがわかっています。
この課題の結果と、4つの遺伝子の一塩基多型との関連性を調べたところ、メラノコルチン2受容体(MC2R)にある2ヶ所の一塩基多型が、二者択一タスクでは人からの合図に対する正確な理解と、解決不可能なタスクでの人を見つめる頻度との両方に関連していることがわかりました。その他の遺伝子の一塩基多型については、解決不可能なタスクで人の方を見る頻度にのみ関連していました。
これらの結果から研究者らは、ストレス反応に関係するMC2R遺伝子の一塩基多型の変異が犬の家畜化の初期の過程において、人から受けるストレスを強く感じないように作用した可能性を示唆するものだとしています。
[Photo by Magdalena Smolnicka on Unsplash]
今回の研究は犬の社会的行動に着目して家畜化の遺伝的な背景を探ったものですが、先日の「オオカミから犬へ〜ディンゴは進化のどこに位置するか?」の中でもお伝えしましたように、犬は社会的な行動だけでなく、でんぷんを消化する能力のように、生活環境(食餌環境)に対しても適応度を高める方向に遺伝的な変異を起こしていることがわかっています。犬の家畜化は一つのイベントによるものではなく、さまざまな出来事やそれに対する遺伝的変異、さらには人が選択繁殖をすることでその遺伝的な変異が犬の中に蓄積されることで推進されてきたと考えられるでしょう。
また、解決不可能なタスクに関しては「人へのアイコンタクトの違いは個体差?それとも犬種差?」で、ラブラドール、ジャーマン・シェパード、チェコスロバキアン・ウルフドッグの3犬種を比較した研究を紹介しましたが、そこでの結果も今回と同様に、遺伝的にオオカミに一番近いチェコスロバキアン・ウルフドッグが人に視線を向ける頻度が低いという結果がでています。もちろん個体差もあるでしょうが、やはり、犬種が持つ遺伝情報の差が影響をして、特定の行動をとる頻度を変えていると言えると思います。
生物は環境に適応して生きるために、DNAの情報をわずかに、時に大きく変化させながら進化していきます。そのちょっとした変化を逃さずに犬を人類の友としてくれた大昔の人々にも、そして、今に至るまでその関係を大切にしてきた人々にも、感謝の念に堪えないものです。
【参考文献】
【関連記事】