文:北條美紀

[Photo by Happy monkey]
今や、カワイイという言葉は、kawaiiというれっきとした日本発の単語として世界中に知られている。これまでにも、カワイイという言葉に対する私の個人的な違和感や、カワイイという言葉の持つ魔力ついていくつかの記事を書いた。「カワイイとかわいそう~憐みの気持ちと上から目線 メサイア・コンプレックスとは」や「『短頭種のいびきってカワイイよね!』って思考停止してやいないか?」などがそれだ。
その後も懲りずに考え続けていたところ、アメリカの文化理論学者で文芸評論家、フェミニスト学者のシアンヌ・ンガイSianne Ngaiの『Our Aesthetic Categories』(2012)にいき当たった。Ngaiは、「おかしなZany」「かわいいCute」「面白いInteresting」という感情と資本主義の関係について考察しているのだが、Ngaiの定義するCuteはkawaiiとほぼ同義で、日本の犬文化を念頭に読んでみるととても興味深いのだ。ということで、またまた「カワイイ」と犬について考えてみようと思う。
カワイイという感情の正体
カワイイkawaiiの意味するところは非常に多様だが、Wikipediaでは「かわいらしさ、子供のような無邪気さ、魅力、素朴さを強調する日本の文化現象」と定義されている。そして、Collins辞書では「日本の芸術や文化の様式を表す語で、明るい色や子どもらしい見た目のキャラクターを用いて、『かわいらしさ』という特性を強調するもの」、Cambridge Dictionaryでは「日本文化において、心地よく魅力的であり、特に小さな人や動物、物などをシンプルに描いたものに関係する様子」と訳されている。また、會澤(2010)は、カワイイには、「ちいさい、愛らしい、守ってあげたいという、非闘争性や非攻撃性、あるいは脆弱性」が含まれ、「決して他人を攻撃したり傷つけたりすることはないという安心感さえ秘めている」と述べている。

[Photo by Brecht Bug]
これに対してNgaiは、Cuteを「単に小ささ、柔らかさ、もろさの美学にとどまらない。それはまた、私たちが『カワイイ』と感じる対象に対して持っている、自らの力の象徴でもある」と定義し、カワイイと感じる側が抱く支配感について指摘している。つまり、カワイイものの非闘争性や非攻撃性を強調するカワイイ文化は、強い支配感の表れであると同時に、それをオブラートに包んで見えにくくしてしまう役割も果たしている。
また、Ngaiはカワイイの触覚的魅力について、「カワイイという感情は触覚的な価値と深く結びついている」とし、「私たちが触れたい、抱きしめたい、時にはつぶしてしまいたい欲望を、時に不安なほど強く喚起する」と述べている。ここでも、カワイイという感情には、愛しいという感覚と支配感の両面が存在していると指摘する。
さらに、フェミニスト学者でもあるNgaiは、「カワイイとされる対象は、女性化され、幼児化され、商品化される」とも述べ、かわいがられる対象が無力で従属的な対象として扱われる危険性について警鐘を鳴らす。また、「何かをカワイイと呼ぶことは、多くの場合、一種の道徳的無力化の前触れである」、「私たちは許し、見逃し、言い訳をするようになる」とし、カワイイが倫理的思考停止を招く可能性を指摘する。
カワイイと資本主義、そして犬との関係
Ngaiは、カワイイに対してまだまだ辛辣な指摘を続ける。
Ngaiは、カワイイがマーケットにおいて非常に利用しやすい感情であるという。「カワイイは、商品が『自分を必要としている』ように見せかけ、消費者である私たちを『保護者』のような役割に変えてしまう」といい、感情操作を通じて消費が促される上、商品を買うという行為が、保護や愛情表現として正当化されると説明する。ここで、「商品」を「犬」に置き換えると何だか嫌な気持ちになるのは私だけだろうか。
そして、「カワイイという美的感覚の柔らかさは、支配的、搾取的な構造を覆い隠し、正当化する手段となる」ともいう。私の頭には、カワイイ動物を消費対象とする〇〇カフェなどが頭に浮かぶ。〇〇カフェから漏れ聞こえてくる「カワイイ!」は一見すると愛情表現のようだが、動物を感情調整装置(癒しを与えたりストレスを解消したりする装置)として扱い、動物の主体性や快適性を後回しにしてしまう倫理的鈍感さとつながっている。
Ngaiは最後に、「カワイイという感情は常に無垢なのか? それは、保護の名を借りた支配の一形態ではないのか?」と問う。ここには、人がカワイイと感じることは、時にその対象の自由や尊厳を奪ってしまうことにもなり得るという痛烈な批判がこめられている。
そして、日本の犬文化はいかに
すっかりカワイイが悪者のようになってしまった。もちろん、カワイイは一方的に否定されるものではない。愛しさと支配欲、陰と陽のバランスが取れていることが大事なのだ。バランスさえ取れていれば、カワイイに含まれる保護欲は情緒的な絆を築くためのこの上ない力となる。支配感は継続的なケアのモチベーションや責任感となる。そして、陰と陽のバランスを取るための努力は倫理を意識する訓練になるはずだ。
Ngaiの指摘は極端かも知れない。ただ、「ロボット研究から見た日本の犬文化~やっぱりポイントは擬人化の仕方」でも書いたように、日本人には欧米人に比べ、人間と犬の違いに対する感覚が曖昧なために「犬らしさ」に疎かったり、犬の中に親しみやかわいさといったポジティブな感情を見いだしやすい(ネガティブな感情を忌避しやすい)という傾向がある。これらはカワイイkawaii文化の負の側面なのかもしれない。あるいは、直接的な倫理的対立や怒りの表現を避ける国民性、「カワイイ!」とすることで緊張から距離を取ることを容認する文化の表れなのかもしれない。
卵が先かニワトリが先か論争に陥っても意味がない。とにかく、日本人は特にカワイイに対する注意が必要なのだろう。こういった傾向を持つ日本人だからこそ、カワイイの陰と陽のバランスを意識することで他文化とは違う独自のアニマルウェルフェアを生み出せるかもしれない。そんなことを期待しているせいで、私はカワイイにこだわっているのかもしれないなんて思った次第だ。
【参考文献】
Our Aesthetic Categories(Ngai,2012)
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文:北條美紀
臨床心理士・公認心理師。北條みき心理相談室運営。一万時間以上のカウンセリングを重ねた今でも、人の心は未だ分からず、知りたいことだらけ。尽きない興味で、日々のカウンセリングに臨んでいる。犬と人との関係を考えるために、犬に関わる人間の心理学的理解が一助にならないかと鋭意思案中。
北條みき心理相談室:www.hojomiki-counseling0601.jp


