文:尾形聡子
[photo by DoraZett]
子犬を迎えるときのワクワク感は特別なもの。期待や喜びで胸は高鳴り心は躍る、あの高揚した感情は一度経験すれば忘れがたいものです。しかしその一方で、子犬を迎えた飼い主の多くがそれに伴う生活の変化によりストレスや心配、不安、フラストレーション、後悔などのネガティブな感情を抱くことがあります。俗に言う「パピーブルー」。産後の女性が経験する「ベイビーブルー」の感情状態と似ているところから来ている言葉です。
ベイビーブルーもパピーブルーも大きな人生の変化の後に起こることのある、うつ病や不安症に似た症状が短期間でてくる状態を指します。ただし長期間にわたりネガティブな感情状態が強く続けばベイビーブルーから産後うつと呼ばれる病気になりかねません。同様に、パピーブルーも飼い主の精神状態が悪化していけば育犬ノイローゼに発展し、絆を築くのが難しくなり、犬を手放すという最悪のケースに至る可能性も高まります。それだけでなく、犬が飼い主の不安定な精神状態に強く影響を受けながら日々を過ごすことにもなるでしょう。
ベイビーブルーや産後うつの研究は数多く行われていますが、多くの飼い主が経験すると言われるパピーブルーについての科学的な研究はこれまでほとんど行われておらず、2023年にようやくオーストラリアとイギリスからの二つの研究が発表されたという状況にあります。そこで、フィンランドのヘルシンキ大学の研究者らは、パピーブルーを客観的に評価するための質問票をつくり、信頼性について検証を行い、パピーブルーの実態に近づこうとしました。
[photo by Mary Lynn Strand]
パピーブルーの3つの特徴
パピーブルーを評価する質問票をつくるため、研究者らはパピーブルーを経験したことのある飼い主に対してパイロット調査を行い、3つの問いに対する自由回答のテキストについて定性分析を行いました。そこから質問票をつくり、新たにその質問票への回答を募集し、1801人からの回答をもとに質問票の最終版を作成。質問票の信頼性を確認するために、以前質問表に回答した人に再度回答を求め、259人の飼い主からの回答を得ました。
さらに研究者らは、子犬の時期のパピーブルーの状態が子犬の成長とともに緩和されていくかどうかを調べるために、子犬期と現在(1〜2歳)の状況についてそれぞれ回答するよう326人の飼い主に依頼しました。
解析の結果、パピーブルーは3つの要因「不安」「フラストレーション」「疲労」によって全体の72%を説明できることがわかりました。中でも占める割合がもっとも多かったのが「不安」で、子犬をきちんと育てられるか心配、子犬の健康や発育への不安、犬への世話の不十分さについての懸念などが含まれています。次いで多かったのが「フラストレーション」で、子犬を迎えたことに対する後悔、子犬への苛立ち、子犬を誰かに譲った方がいいのではないかという考えなどが含まれています。そして「疲労」はそのものずばり、子犬との生活への疲れ、睡眠不足などになります。また、不安とフラストレーション、不安と疲労、フラストレーションと疲労の間にはそれぞれ正の相関が見られました。この3つは同時に起きるケースが多いものの、場合によっては、1つあるいは2つが顕著にあらわれることがあるのもわかりました。
また、子犬の時期と成長した現在(1〜2歳)の回答の比較では、3つの要因すべてにおいて現在の方が有意に低くなっていました。この質問票が子犬期特有の飼い主のネガティブ感情を捉えられているものになっており、それが犬の成長とともに減少していくことが示されたいうことです。
さらに、子犬期に経験したネガティブな感情にはフェージングエフェクトバイアス(fading affect bias)が認められました。フェージングエフェクトバイアスとは、ネガティブな感情に関連する記憶はポジティブなものよりも早く忘れる傾向があるという心の現象のことで、子犬の時期に感じたネガティブな気持ちは時間の経過とともに薄れていたことを意味します。
研究者らは今回作成した質問票は再テストも含め、犬の飼い主の子犬育て時期におけるネガティブな経験や感情を測定するのに有効で、信頼性が高いことが示されたと結論しています。
[photo by lalalululala]
いいことも悪いことも、いずれいい思い出になると信じて!
今回のアンケート調査において、子犬育て時代にかなりネガティブな感情を抱いたと回答した人は約半数、極めて強い負担を感じたと回答した人は10.1%となっていました。また、フィンランドでのベイビーブルーの発症率は38%、産後うつ病の発症率は10.3%との報告があるそうで、その割合を見ても、ベイビーブルーとパピーブルーには何かしらの類似点がありそうだと研究者らは考察していました。
今回の研究では参加者の90%以上を女性が占めていましたが、このような調査研究では常に女性の参加者が多数になる傾向があります。しかし、ベイビーブルーは女性に特有のものではないことが近年の研究で報告されるようになっていることに注意が必要です。2020年に発表された日本の国立成育医療研究センターの調査では、出産後1年のうちに精神的な不調を抱えていたのは父親で11%、母親で10.8%と同程度となっていました。
人の親子の愛着関係と犬と飼い主のそれが似ていて、たとえ自分が産んだ子どもではなくても男性も産後うつになるリスクがあることを考えると、飼い主の性別を問わずパピーブルーになるリスクがあるだろうと推測されます。パピーブルーにならないようにするための予防策は具体的に示されていませんが、ベイビーブルーにならないようにするための対策の中で参考にできるものもあるのではないかと思います。
特に初めて子犬を迎える場合、子犬の世話への負担感や想像していなかった困難な状況をプレッシャーに思い、より強くストレスを感じるかもしれません。計画していたように子犬育てができないと不安を感じ、自分を責めてしまうこともあるでしょう。そこから諦めの気持ちが生じ、犬と仲良くなれないと落ち込んでしまえば、自分に飼い主としての資格はない、他の誰かに飼ってもらう方が犬のためだ、と思うようになってしまうかもしれません。
犬曰くの記事の中で予防策として何か参考にできるものはないかと探したところ、完璧主義者になりすぎないことがひとつのポイントになるかもしれないと思いました。完璧にしようとするがゆえに、そのようにできない自分を責め、自信を無くし、後悔の念を抱き…というようなネガティブ思考のスパイラルに陥る可能性があると考えられるためです。それについてはぜひ以下の臨床心理士の北條美紀さんの記事をご覧ください。
子犬は手放しで可愛い存在ではありますが、その可愛さとは裏腹に、常に注意を払わなければならず、夜泣きがひどければ睡眠不足になるなど、飼い主は精神的にも肉体的にも負担がかかる時期であるのを十分に理解しておくことが大切です。
そして、いい意味で、喉元過ぎれば熱さも忘れると言われるもので、子犬育てでのネガティブな記憶は子犬の成長とともに薄れていました。子犬育ては大変だけどポジティブな感情で振り返ることのできる日がきっと訪れる!と信じる姿勢でいることも、大切かもしれませんね。
【参考文献】
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