文:尾形聡子
[photo from Adobe Stock]
早いものでタロウとお別れしてから3年が過ぎた。その1年半後にハナのことを見送ってからというもの、まったく散歩をしなくなった。タロハナと生活していた17年間、それこそ雨が降ろうが槍が降ろうが欠かさず散歩を続けていたのに、である。私の生活は散歩なしには回らない、散歩は完全に日常の一部となっていると思っていたが、犬がいなくなった途端、いとも簡単にその習慣はパッタリと途絶えた。
散歩をしなくなり、移動はもっぱら自転車になった。ある程度の広さがある道ばかりを使うようになり、裏路地は滅多に通らなくなった。「裏路地散歩をつづけて」でも触れているが、私の暮らす地域は下町色が残されていて、あちこちに特徴的な裏路地がある。ちょっとした迷路がそこここにあるようなところだ。裏路地を歩きながら季節感や生活感を全身で感じ取っていたんだと、自転車生活の今、よく思う。
たかだか自転車のスピードではあるけれど、それでも歩くよりもずっと速く周囲の景色は流れていく。その感覚に慣れてしまうと日常で使う自転車というものは単なる移動手段であって、散歩に比べて移動中に得られる気づきは激減、余韻が生まれにくくなるものだとしみじみ思う。だが、犬の散歩で足繁く通っていた散歩道を通るときには、たとえ自転車に乗っていてもふと胸が熱くなることがある。
「散歩道のあちこちにタロハナの置き土産がこぼれ落ちているなあ」
タロハナとの思い出は日々の散歩抜きに語ることはできない。散歩はルーティンではあるけれど、それが苦痛になってしまったら(体調の悪いときや悪天候のときなど、たまにはサボりたいなと思うことももちろんあったけれど)犬との日常生活は楽しめないと思う。そしてお互いの関係性を築いていくのに、犬と一緒に毎日外に出て散歩することがどれほど役立つか。信頼関係は一朝一夕に作られるものでは決してない。
そんなことを強く感じるようになったのは、タロウが晩年になってからだった。歳をとってくると当たり前のようにできていたことができなくなる。病気にもかかる。何でもなかったような日常が宝物だとハッと気づく。犬は散歩道をいろんな彩りの道に塗り替えてくれ、ただの道が意味を持つようになるということにも。
話は変わって、昨年藤田りか子さんの暮らすスウェーデンに行ったのだが、その時にこの写真のようなところを歩けるかなとこっそり楽しみにしていた。この写真は「Retrievers and all about them」の中に使用したもので、すごく印象に残っていたのだ。
[photo by Rikako Fujita]
実際に写真の道を通ったかどうかはわからないけれど、同じような道を藤田さんの犬たちと一緒に散歩することができて嬉しかったのを思い出す。針葉樹の森が両側に広がるまっすぐの道。ただそれだけなのだけれど、3頭の犬たちがそれぞれに散歩道に彩りを添えていてとても刺激的だった。
散歩道は犬との生活そのものでもあり、犬と一緒に歩んできた道とも言えるかもしれない。また犬と暮らすことがあれば、もっとたくさんの道を歩いて新しい置き土産をそここに作っていきたいなあと思っている。
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