文と写真:尾形聡子
下町の人たちは、相変わらず温かくハナを見守ってくれている。タロウが亡くなって1年以上過ぎているというのに、今でも見知らぬ人からよく声をかけられる。特に、ハナの歩みが遅くなってからというもの、声をかけるタイミングが掴みやすいのだろうか、その頻度はむしろ上がっているかもしれない。
ある日、ハナをカートに乗せて動物病院に連れていく道すがら、青信号を渡っているときに顔見知りではない女性から声をかけられた。
「えっ?歩けなくなっちゃったんですか…!」
ハナはあまり病院が好きではないので、いざというときのために最近はカートを使って連れていくことが多くなっているのだ(帰り道は家に帰るのでウキウキと歩くのだけれども)。
「いえ、まだまだ歩けるんですけど…獣医さんにいくのを嫌がるもので」
「ああ、よかった…!片方いなくなっちゃったから大丈夫かなあと…元気なんですね!」
悲壮感漂う表情から一変、ものすごく安心した面持ちに。きっと過去にタロウが亡くなったと話をしたことがある方だったのだろう。
枚挙にいとまがないほど散歩中にはこんな言葉を交わしている。自転車を降りてまで話しかけてきてくれる人もいるくらい、相方を亡くしたハナを心配し、応援してくれる。だが、決して心が和むような会話ばかりではないのも事実。今回は「ゆる〜り」シリーズもとい、「いら〜り」シリーズな話をしたいと思う。
それはとある週末の朝のことだった。ハナは散歩前半の歩みが遅い。トボトボと細い坂道を下っていたら、前から初老の女性がこちらを凝視しながらゆっくり上ってきた。ああ、これは何か声をかけてくるなあと思っていると、案の定、すれ違うときに立ち止まり、こう聞かれた。
「目が見えないの?」
「いえ、見えているんですけれど、かなりの歳なので」
「まあ、かわいそうに…」
と言って、その女性は歩き去っていった。ハナの目が見えていることが伝わったのかもわからず、なんだかものすごく嫌な気持ちになった。
目が見えなくたって犬は十分に生活を楽しめることは「もし愛犬の目が見えなくなっても、散歩に行けると思いますか?」や「視力聴力に問題がある犬は、犬生を楽しめないってほんと?」にも書いている。しかし人は視覚に頼る生き物だから、目が見えない状況の大変さを想像しやすく、ついそれを犬にも同様に当てはめてしまいがちなのだろう。そもそも犬の生態をあまり知らない人ならば、そう考えるのは至極当然とも言える。
だが、それだけの理由では「いら〜り」なモヤモヤは晴れず。テクテク歩きながら考え、たどり着いたモヤモヤの正体は「憐れみ」だった。
それに気づいた私は散歩から戻り、すかさず北條美紀さんの「カワイイとかわいそう~憐みの気持ちと上から目線 メサイア・コンプレックスとは」を読み直した。そこには、
人は、共感されたいが同情はされたくないものだ
と書かれていた。
共感:相手の枠組みの中で、あたかも相手のように出来事を感じようとする気持ち
まさにこれだと膝を打った。当の犬は同情と共感の違いを人からかけられた言葉の中に感じることはできないだろう。とはいえ犬と飼い主はある意味一心同体だ。だからこそ飼い主である私は、ハナに同情を寄せられたことに対して嫌な気持ちになった。一方で、冒頭の会話のような、ハナに共感してくれる言葉に対しては心が和むのだろう。同情と共感の違いは理解しているつもりだった。でも、こうして実際に同情されてみて、両者の違いを再認識させられたのだった。
頭の中で「同情」がグルグルしている間に、「感動ポルノ」のことがふと頭をよぎった。犬のこととはちょっとずれてくるけれど、同情が社会的風潮になったときに及ぼす影響が、よからぬ方向に大きく出てくることがあるのを知っておくのも大事かもしれない。さらに、精神科医で心理学者のアルフレッド・アドラーのこんな言葉があるのも見つけた。
そしてもうひとつ、今回の一件で思い出したのは「かわいそう」という言葉のあいまいさについて。これまた北條さんの「「しつけやトレーニングはかわいそう」は3だけ主義の裏返し?」に、
「かわいそう」は魔法の言葉だ
と書かれているように、ともすれば「かわいそう」は合理化された自己防衛だけでなく、相手を攻撃することにもなりかねない。
そんなことをつらつら考えるまでに至った「いら〜り」な出来事。以前気をつけようと思った「大丈夫」という言葉に加えて、あらためて「かわいそう」の使い方にも気をつけようと心した次第だ。
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