人馴れしていない犬の問題へのモヤモヤ

文と写真:アルシャー京子

犬の名前を呼ぶと犬が振り向く。口笛を吹くと犬が寄ってくる。しゃがんで優しい声をかけると犬が寄ってくる。

袋からガサガサという音を立てながら美味しそうなおやつを取り出すだけでも簡単に犬は反応するし、人が椅子から立ち上がっただけでも何かを期待して犬は寄ってくる。これらは私たち犬と一緒に暮らしている者にとっては極々あたりまえの日常風景である。

犬と接したいとき、人はまず犬に声をかけるがそれをポジティブなコミュニケーションとして捉えることができるのは人の中で暮らしている家庭犬のみである。言い換えれば、人と暮らしている犬だからこそ人の声の持つ意味を知っているのであって、もしこれが人と密に暮らしていない、いわゆる人馴れしていない犬だった場合その意味は当然知らない。

家庭犬に慣れた人が人馴れしていない犬と接するとき、たいがい戸惑ってしまうのが犬とのコミュニケーションの取れなさだ。家庭犬なら口をチッチッと鳴らせば反応してよってくるが、人馴れしていない犬はその音すらも聞き慣れない不審な音として反応し、寄ってくるどころか身構えて目をキョロキョロさせ、耳を引いて体を硬くする。優しい声だろうが静かな声だろうが、人が犬に向かって声を発するという行為自体、犬にとっては不慣れな状況で、その声が次にどのような状況へと繋がるのかが分からずただ不安でしかない。

家庭犬ならば少なからず人の手の優しさを知っているが、人馴れしていない犬はそれを知らない。どちらも人の手は犬のマズルと同じと捉えるが、人の動きを知らない犬にとっては見知らぬ犬のマズルと同じである。そんな状況でもしも犬への接し方を知らずに手を動かしてしまうと、犬にはさらに理解不能で恐怖以外の何者でもない。犬は恐れの拒否反応として、近づいて来た手を咬むという結果になる。

今回このように家庭犬と人馴れしていない犬との比較の例を挙げたのには理由がある。もし今の日本の犬問題を挙げるならば、時代はすでに「人馴れしていない犬達」の問題、端的にいえば野良犬たちの問題へと徐々に移ってきているように思うからだ。

これまで日本では安易な購入と人間中心な飼育そして安易な理由による犬の遺棄といった飼い主のモラルや責任感などが多く問われてきた。それに対策を打つべく前回の法改正で環境省が「終生飼養」を掲げたり、無責任な飼い主の事例をメディアで取り上げたり、さらには楽しい犬との生活を実現するために多方面で人と犬のコミュニケーションを円滑にする情報などが近年多く見られるようになった。

その一方で、いまだに愛護センターなどの収容所で「人馴れしていない」という理由で譲渡対象から外される犬達のことが気がかりで仕方ない。しかもこれらの犬の多くは雑種で、純血種の犬達ほどの人気はなく、里親希望者を募るまでもなく期限を迎えてしまう現状にある。都会ではすでに野良犬の存在は忘れ去られつつあるが、とくに地方であるほど野山に野良犬が隠れて住み、また地方では庭に繋ぎ飼いされている犬も多いことから、野良犬の問題はなかなか解決されていない。

仮に野良犬を捕獲しても、その犬達を馴化して譲渡するということはよほど犬の性質を理解し時間をかけなければ犬も人もお互いにトラウマを作っておしまい、という結果が見えている。ましてやもしも過去に人から物を投げられたり、追いかけられたりした経験を持つ犬ならなおさら人に対する警戒心は強く、そしてその警戒心は母犬から子へも受け継がれ一筋縄ではゆかない。

高めの声でほめたり、リードで誘導することなど人馴れした家庭犬へのしつけのテクニックは野良犬たちにはなにしろ使えないのである。だから、これまでトレーニングが難しいとされ多くの野良犬たちが譲渡対象から外されてきた。

しかし、殺処分ゼロを目指そうとしている今の日本では、人馴れしていない野良犬の問題は目的を達成するためには避けては通れない道である。むしろ野良犬問題をどうするかということに、今後の日本の犬の殺処分問題がかかっているといってもいいくらいだ。

犬のコミュニケーション手段は第一に人とは異なる非言語(nonverbal)だから、人がどんな声色を使おうが人と接したことがない犬にとってはあまり意味がなく、むしろ人が犬のボディランゲージをどこまで読み取り、犬の気持ちをどこまで感じることができるかが、人馴れしていない犬に接する際の重要なポイントとなる。人が介在しない場面において犬という動物が持つ本来の習性と基礎行動がどのようなもので、犬がどのように人との場面を捉えるか、人と犬との間に距離をおいて考えなければならない。

あまりにも人馴れしていない犬に人の都合を押しつけ短期間で無理矢理馴化させようとすると、きっと犬は反発してくるだろう(たいがい直接人に「いやだ!」と向かってくるか、その場を逃げ出すかのどちらかである)。一頭一頭の犬を馴らすために必要な知識と技量は学べばよいことだが、はたして時間と手間とそしてなにより心の余裕が今の日本にあるのだろうか、そのあたりが個人的に最も気になるところで、まだまだ課題は山積みであることを思うと少しため息がでる。

ともあれ、できることからやっていくしかない現状であり、確実に一歩一歩進んでいけるよういろいろと考えを巡らせる私の毎日を支えてくれるのは、何を隠そう隣のソファの上でヘソ天でひっくり返っている犬の姿。間接的にも直接的にも、犬を助けるのはやはり犬なのかと思いつつ、犬のお腹を撫でて明日へのエネルギーをチャージしている。

(本記事はdog actuallyにて2015年6月30日に初出したものをそのまま公開しています)

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