文と写真:尾形聡子(本記事はdog actuallyにて2016年11月1日に初出したものを一部修正して公開しています)
何万年も前に人と犬は共に暮らし始めたといわれています。もちろん太古に人と犬が暮らしていたときには、その時なりの良い関係があったはずですが、長きにわたって暮らし続けてきた中でお互いに進化し、種を超えたより素晴らしい関係を結べるようになったのではないかと考えられています。
10月6日、東京大学農学部で開催された日本ペットサミット(J-PETS)主催の例会にて、犬の認知科学研究の草分け的存在である、麻布大学獣医学部動物応用科学科伴侶動物学研究室教授の菊水健史先生が講演されました。テーマは『ヒトとの共生を可能とするイヌの特殊な進化』。これまで行われてきた犬の認知能力についての科学的な研究結果をベースに、先生の考察を交えながらのお話はとても興味深いものでした。
「今日は、近年の犬の認知科学の内容を紹介しつつ、人と犬の共生がどうして可能になったのかということを考えていきたいと思います。」
「人と犬の共生を考えるときに大事な要素が二つあります。ひとつは”人と調和のとれた行動”です。人の意図をどれだけ犬がくみ取り反応してくれるか、そして犬の様子を人がどれだけ読み取ることができるかという相互理解の認知基盤、つまり人と犬の間に存在する阿吽の呼吸はどんなメカニズムかということです。」
そしてもうひとつは”人と犬との絆の形成”だといいます。
「お互いの行動を理解するだけではなく、そこには情緒的なつながりがあるだろうと考え、それを生物学的に証明できるかどうかということです。これらの2点を考えていくことで、人と犬の共生を紐解くことができると思っています。」
この2つの要素を考えるときに大切になってくるポイントが3つあるそうです。
「ひとつは協動性・寛容性になります。寛容性とは他者の存在を受け入れることで、社会的寛容性(social tolerance)と呼ばれているものです。たとえば散歩中に知らない犬と会ったときに挨拶できる、ドッグランで知らない犬と遊べるといったようなことになるのですが、これは野生動物にはできないことです。野生動物は他者を排除する厳しい社会観をもっています。」
では犬が持つ寛容性はどのように獲得してきたのでしょうか。その遺伝的背景を考えることが2つ目のポイントとなります。
「オオカミと比較することによって犬の特殊性が浮き彫りになってきます。たとえばオオカミはどんなに早期に人が介入して家庭内で暮らし始めても、性成熟が訪れると家庭内で飼うことができなくなり外で飼育することになります。オオカミは家庭内で暮しつづけられないのに、なぜ犬は暮らしていけるのでしょうか。犬の特殊性を考えていくには、オオカミとの比較は欠かせないのです。」
そして、人と犬がともに暮らすようになってからのことを考えるのが3つ目のポイントです。
「人と犬には、一緒に暮らしてきことが影響してきただろう共通する点を見出すことができます。それを収斂(しゅうれん)進化といいます。収斂進化とは、どのようなニッチ(生態的地位)で暮らすかによって獲得される形態や能力が似てくる現象のことをいいます。たとえばムササビとモモンガが収斂進化にあたります。これらは系統樹的には離れたところにいるのですが、樹上で生活をして隣の木に飛び移るということにニッチを見出し、それが共通していたことから結果的に同じような形態を獲得することになりました。同じような形態や能力を獲得するのは進化的に近いからというだけではなく、ニッチが同じであることにもよります。人と犬がそれにあたるのではないかということです。」
これら3つのポイントを中心に、お話が進められていきました。
人と犬の間に見られる調和のとれた行動とは?
「2002年にサイエンス誌に発表された有名な研究があります。ご存知の方も多いと思いますが、指差し実験を呼ばれるものです。この実験を行った研究者は、人間はなぜ人間になったのかを明らかにしようとするために、もともとはチンパンジーの研究をしていました。」
二つの入れ物の一方に肉片を入れ、人がその入れ物を指差すと犬はそちらを選択するというものです。子犬も同様に人の指差しに追従することから、これは犬にとって自然な行動であることが示されました。一方、人に慣れているオオカミに対して同じ実験を行ったところ、オオカミは人の指差しには興味を持ちませんでした。なぜならオオカミは人に助けを求めないためです。
「犬に関わったことがある方にとっては、この実験結果は当然だと思われるでしょうが、これは人類進化の研究者たちにとっては非常に驚く結果だったのです。なぜなら、チンパンジーにはできないことだからです。人類進化学者たちは地球上でこれができるのは人だけだとずっと信じていました。この研究を起点に、犬が人とのコミュニケーションをどのように成り立たせているのかということについての研究が非常に広がっていきました。」
こうして現在、世界中で数多くの研究者により犬の認知研究が行われています。たとえば犬は人の視線にとても敏感な生き物ですが、人が見ているか見ていないか、人が見えているか見えていないかといった状況を判断し、それにより自らがとる行動を変化させるのは『犬の行動は飼い主の目次第?』や『盗み食いは暗がりで・・・』などで内容紹介しています。
「犬と人のコミュニケーションは、基本的に視線や動作といった視覚から得られる情報をもとに行われている、ということになります。ではなぜ犬がそのようなコミュニケーションを取れるようになったかを解明するために、私の研究室では日本犬と洋犬を比較することで、原因となる遺伝子の探索を続けています。」
今世紀に入ってから、犬のゲノム解析研究は飛躍的に進みました。その中でこれまでに、日本犬はオオカミと非常に近いゲノムを持っていることが明らかにされています。
「オオカミと遺伝的に近い柴犬の中には、自分ですべて解決しようとするような、オオカミ的な心がある可能性が高いのではないかと考えられます。そこで、研究室ではラブラドールと柴犬に指差し実験を行ったところ、ラブラドールは100発100中でしたが、柴犬ではときどきミスが見られました。平均値をとればチャンスレベルよりも高くなるのですが、柴犬はミスをするだけでなく、実験自体を理解できず実験に参加できない個体もまれに見受けられます。」
人と犬の調和のとれた行動は、犬が人に助けを求めるところにも見られます。
「犬は困ることがあるとすぐに飼い主さんを見上げたりしますよね。これはお互いに協力しあうために必要な行動です。指差しに関しても基本的に同じなのですが、犬は環境と何らかのかかわりを持つときに、人を重要な情報源としています。人が指をさした方向に従いますし、自分ができないことがあれば視線を利用して人を動かそうとするわけです。犬のこのような能力は進化の過程で獲得されたのだろうと考えられていますが、つまりは犬にとって人とのコミュニケーションが非常に重要だということをあらわしているのです。」
「視線を使ったコミュニケーションは人間社会でもっともよく使われているものです。日常生活の中でも普通に指をさしたり目で合図をしたりしますよね。犬は人と視線を共有することで調和的な行動をとりますので、社会認知機能がとてもよく似ているといえます。そしてこれは確実にオオカミとは異なる点です。さらに、人との視覚コミュニケーションはチンパンジーよりも優れています。」
この人と犬との間に見られる調和的な行動が、収斂進化してきたためのものではないかと考えられるそうです。
「先ほども言いましたが収斂進化とは異なるグループの生物が、同様の生態的地位についたとき、系統に関わらず身体的特徴が似通った姿に進化する現象です。人と犬は遺伝的には相当離れていますが、身体的特徴として中枢機能、この場合では脳の働きが似通ってきただろうと考えることができるわけです。共生してきたからこそ犬はこのような能力を獲得し、獲得したことによって人と犬は共生が可能になったということになります。」
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今世紀に入ってから犬が持つ特殊な能力が科学的に明らかにされてきています。次回は模倣能力についてのお話から紹介していきたいと思います。
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