文と写真:尾形聡子
本格的な秋がすぐそこまで迫っていることを知らせるかのように、銀杏の香りがほのかに漂い始めた10月上旬の東京大学本郷キャンパス。個人的に犬と一緒に三四郎池を目指して散歩にくることはしばしばあるのですが、その日の目的地は東京大学大学院人文社会系研究科哲学研究室です。一ノ瀬正樹教授は専門のひとつとして動物の権利について研究を続けられており、また、無類の動物好きでもいらっしゃる一ノ瀬先生に、犬という生物を取りまくさまざまな考えや想いを伺ってきました。(現在、一ノ瀬先生は東京大学名誉教授(哲学講座)、武蔵野大学グローバル学部(教養教育・哲学)教授になられました)
殺処分される運命にあるペットの権利とは?
まず最初に、殺処分される運命を強いられるペットの権利についてどのようにお考えか尋ねてみました。
「これはものすごく難しい問いです。まず、何らかの理由により飼育できなくなったとして保健所などにペットを連れてくる人たちは、自分で自分のペットを殺すという行為ができないのだと思います。結局、他人の手を介して殺してもらうということになっていると思うんです。さらには、殺処分の施設で働いている方も、決して喜んでやっているわけではないと思います。つまり、シンプルにいえば、やってはいけない、やめたほうがいいということになるのですが、一切殺処分をしてはいけないとなると、それらの犬たちはどうするのか?という問題が出てきます。仮に、犬が自分たちだけで暮らすことができるような、犬だけのサンクチュアリのようなものを作ることが可能ならばとは思うのですが、それは多分難しい。すると、それではどうするのか?ということになり、結局堂々巡りになってしまいます。」
それならばせめて秒殺でというように、殺しかたの問題になってきてしまうと一ノ瀬先生。動物福祉は緩和策であって、根本的な解決策ではないのですが、殺処分されるペットの権利ということを考えると、今は暫定的にそのような発想をもって対応することになるのではないかと考えていらっしゃるそうです。そして殺処分問題の根底にあるものについて、次のようにお話しされました。
「結局この問題は、自分が直接ペットを殺す行為をするのではなく、保健所などの組織や制度など、自分の力を超えたものを介して殺処分するということで、自らの罪の意識が薄くなったり、鈍感になってしまうことなのだと思います。そこが、殺処分問題の根幹にあるのではないかと思っています。」
たとえば個人でどうこうできるようなものではない、国と国との争い。仮に死者が出たとしても、自分の力を超えた国という存在があるがゆえに、鈍感になってしまうといいます。死刑についてもそうです。死刑は国が制度をもって行っていることなので、死刑ということに対して距離を置く、つまり、死刑で人が殺されている事実それ自体を目の前にしたときいい気持ちを持てないとしても、離れたところからそれを黙認し、黙従する、あるいは非当事者の立場で死刑を支持する。さらには、環境破壊についても同じことが言えるのだそうです。なかなか当事者であるという感覚を持ちにくい、場合によっては持ちたくない、ということがもしかしたら生じているのではないか、ということです。
「個人の力を超えた規模の組織や国などの大きな力が働くと、どうしても鈍感になってしまうんです。ヒューマン・ネイチャー、すなわち人間の本質が関係しているのだと思います。良いとか悪いとかいう問題ではなく、人間という種族がそういう発想の種族なのだと思うのです。それに対してあえて言えることは、”事実を可視化する”ことだと思います。事実を知らずして話は始まらないのです。情報を公開することから始まって、リアリティを知った上で、それに対して道徳的倫理的にはどうなのか?ということを考えていくべきだと思います。死刑制度もそうですが、犬猫の殺処分の問題も同様だと考えます。まずは事実を知ることです。なんでも隠してやってしまおうというのがよくないのです。」
大きな力を盾に、どこかで罪の意識を薄めようとする人間の性。そんな性を持つ私たちが社会を変えていくためには、はたしてどうしていったらいいのでしょうか。
意識が変わるには最低でも500年かかる
「意識が変わっていくには、最低でも500年はかかると思います。たとえば奴隷解放や女性解放を見ていても、いまだ完全に解放されているとは言い難い状況です。殺処分の問題も同様に、今日明日といった問題では全くないんです。とはいえ、500年かかろうと1000年かかろうと、今すぐにではないからといって道徳的に疑問があると思う行為を続けてしまうということは、そこに欺瞞の構造が存在していると思います。時間がかかるからといって、ひとつひとつの現実の行動をなんでもいいとしてしまうのは、極めてよくないことと思うのです。ただ、こんなことを言う以前に、500年のうちに人類がいなくなっちゃうかもしれませんけれどもね(笑)。」
意識を変えていくためにも、意見を言うということは哲学の研究をする者の仕事だと思っていると先生。表に立って何かを言うことは反発や批判をたくさん浴びることにもなるのですが、批判もされず黙殺されるということは、裏を返せば誰の関心も呼ばなかったということでもあるのです、と。
哲学者の先生と私たちとでは立場も社会的な影響力も大きく違う、と思ってしまうかもしれません。しかし、言葉にして意見を言うことがいかに大切か、一ノ瀬先生は次のようにお話を続けられました。
「人間は身体を持っていて、身体によって個人個人に分かれていますよね。同じものとしてではなく別の存在として、人間同士、分かれて生きているわけです。お互いに理解しあうためには、存在として分かれている距離を媒介する何かがないとならないと思うのです。では物理的に肉体同士が接すればいいのか?というと、そういうわけではありません。そこで大事になってくるのが、言葉というものです。人間は言葉によって分かりあおうとするしか方法がないので、意見を言って、相手がどんな感覚を持つのか、どんな反応をするのか、それを見て聞いて、という作業を繰り返すしかないんです。結論は出なくてもいいんです。結論が出なくても、話したプロセス自体に意味があると思います。500年とか1000年かかるようなことでも、何かを変えていくためには一歩ずつやっていくしかないんです。たとえば私が活字で発言するというのも、その細々とした草の根運動のひとつなんです。問題を明確に提示して、受けるべき批判は受けて、皆に考えてもらうしかないんです。」
いつか逆転するかもしれない人と犬の立場
ペットに値段が付けられて売買され、物として扱われている現在。そこには、人間の方がペットよりも立場が上であるという構図が存在しています。そのような人と動物の上下関係について、どのようにお考えになるか尋ねてみました。
「犬や猫などのペットは、個体としては人間よりも寿命が短いのですが、種全体としては、宮沢賢治の”注文の多い料理店”という話のようなことになっているのかもしれないと、ときどき思うことがあります。つまり、人間が所有物として、人間の下位に動物を置いて扱っていますけれども、この世の終わりかいつの日か、実はシナリオは全く逆であり、犬や猫が人間を利用しているという歴史だったということが最後に明らかになってくるのではないかと思うことがあるんです。今私たちは人間のほうが動物よりも上だと思っているでしょうが、事実問題として、すでに上下関係が逆転している、という見方もできるのではないかと。結果から過去を振り返ったとき、実は違うことが起きていたんだということが分かることは時々ありますから、それと同じことが、人間と動物の関係にあるんじゃないかなと思うのです。」
動物を下位に扱うことはある種のヒューマン・ネイチャーであり、人間とはそういう生き物だと、さらにお話を続けられました。
「そのような生き物である人間がずっと生き続けるということは、本当は駄目なことなので、もしかしたら、人間という種族自体が絶滅していくべき種なのではないか、と、そんな風に思ったりしてしまう時さえあります。人間は、もともと社会の中で、道徳や自然の摂理などを守ることができない性質を持っている存在なので、人間が上に立ったつもりで動物を扱っているということは、人間という種の限界を示しているのかもしれないと思います。そんなことからも、”実は上位にいたのは犬だった”というシナリオが待ち受けているのではないかと(笑)。ある時人間がそれにはっと気づいて、過去の歴史は全部意味が違っていたんだということに気づくような気がするんですよね。」
犬の方が人間よりも高等な生物だという実感を持っていますと一ノ瀬先生。先生へのインタビューはまだまだ続きます。
(本記事はdog actuallyにて2010年10月28日に初出したものを一部修正して公開しています)
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一ノ瀬先生は東京大学農学部構内にあるハチ公像建立の発案者であられます。詳しくは「ハチ公と上野英三郎博士の像を東大に作る会」のウェブサイトをご覧ください。そして、それに合わせて出版された『東大ハチ公物語』の編者をされています。