オペラ歌手とマスティン・エスパニョール

文と写真:藤田りか子

かれこれもう20年前ぐらいになるのだが、スペインでとある犬種のブリーダーを取材したときの話だ。犬のレポーターという仕事上、これまでいろいろな国で、いろいろな「犬人間」に会ってきた。しかし、このときの人物はかなり強烈であった。オペラ歌手でかつブリーダー、セルヒオ・デ・サラス氏である。ただし彼と犬のかかわりは、いわゆる「セレブの愛犬家」のイメージにあるような、

「舞台を終えて家に帰ると、愛犬に癒やされるんです」

なんて感じではないのだ。私が氏を訪ねた当時、飼育していた犬は約50頭。そのほとんどが、体重80kgを超えることも珍しくないマスティン・エスパニョールなのだから。

マスティン・エスパニョールとは、英語ではスパニッシュ・マスティフとも呼ばれるスペイン原産の大型犬である。一頭いるだけでも相当な存在感なのに、彼の邸宅では、敷地のあちらこちらに小山のような犬が歩き、あるいは寝そべっている。しかし、氏は犬をただコレクションのように集めているのではなかった。ブリーダーとして彼には確固とした目標があった。それは「理想のマスティン・エスパニョール」を作ること。そう、そのためには「素材」がたくさん必要なのだ。

「40年前、山で素晴らしい犬を見たんだ。ものすごく大きくて、力強くて、それでいて気品があった。その犬の印象がずっと頭から離れなくて。それ以来、いつか自分でそんな犬を作りたいと思ってきたんだ」

「子犬? 全部手元に残すよ」


若犬は、広い敷地で放し飼いされている。気ままにここで一日を過ごす。

敷地内の小高い丘には、犬舎で育った若い犬たちを放す広い場所があった。遠くにはバルセロナの街が見え、麓の乾いた草原には赤いアマポーラが咲き乱れている。門を開けると、すでにラブラドールの倍ほどもありそうな若いマスティフたちが、十頭ほど一斉にこちらへ走ってきた。そして、大型犬らしい歓迎を受ける。体当たりで、ドン。

「この若犬たちは、いずれどこかにもらわれていくんですか?」

「いや。全部、手元に残すよ」

「全部?」

「いい犬を作ろうと思ったら、繁殖に使える犬をたくさん持っていなくちゃいけない。今もちょうど子犬が16頭生まれたところだよ」

この犬の骨量を残したい。こちらの犬の体躯を使いたい。この犬の気質の良さを次世代につなげたい。そんなふうに個々の犬を見ていくため、生まれた子犬をほとんど売らないことさえあるという。

「自分でも狂ってると思う。昔は70頭いたこともある。それくらい、この犬が好きなんだ」

憧れの犬を出すために、生まれた子を手元にどんどん残しておき、好きなようにかけあわせていく。遺伝学者であれば、よだれが出そうな環境だ。一つの形態がどんな風に次世代に受け継がれていくか、様々な個体を使って、実験をしているようなものだ。

話を聞いているうちに、彼の本業がオペラ歌手だったことを忘れそうになった。

オペラの世界から犬の世界へ

セルヒオ氏は1944年、スペインのビーゴ生まれ。1970年代にバリトン歌手としてデビューして以来、「椿姫」、「リゴレット」など様々な歌劇に出演。またたくまに世界的オペラ歌手としての栄光の座に。「80年代の偉大なバリトンの声」との絶賛も浴びた。しかし長くオペラの世界に身を置くうちに、その世界に疲れてしまったのだという。

「スイスやフランスなんかも回っていたけど、10年くらい前かな。芸能の世界なんて所詮モンキー・ビジネスと思い始めた。昔は歌そのものが大事だったが、でも、だんだんショービジネスになってしまい、自分が本当にやりたいと思えるオペラができなくなったんだ」

そこで彼は、世界をツアーで回る生活から距離を置き、自宅でマスティフたちと暮らしながら繁殖に取り組む道を選んだ。当時、自宅の隣では70頭ほどの馬を擁する乗馬クラブも経営しており、自身もセル・フランセやスペイン原産のアンダルシアンなど、何頭もの馬を所有していた。舞台から離れた彼の生活は、文字どおり動物三昧だったのだ。


セルヒオ氏の愛馬。もちろんスペイン種、アンダルシアンの牝馬。3歳にしてこの体格!

マスティン・エスパニョールらしさとは

マスティン・エスパニョールは、家畜を捕食者から守ってきた大型の牧畜番犬である。このタイプの犬には、人や他犬への警戒心が強い犬もいる。ところが、セルヒオ氏のところのマスティフたちは、それほど警戒せず自然に人のそばへ寄ってきた。

「そうなんだよ。マスティンは人懐こいし、子供にも優しい。それでいて力強く、気品がある。他の犬種とは違うんだ。特に、うちの犬はね」

とパチリとウィンク。

「マスティン・エスパニョールをアナトリアンと交配しよう、なんて話があったんだ。改良のためだという。でも俺は絶対反対だ。だって、マスティン・エスパニョールはアナトリアンじゃないんだから」

他の牧畜番犬種の血を入れると、外見だけじゃなくてマスティン・エスパニョールの持つバランスの取れた性格も、いわゆる牧畜番犬的な見張り意識の強い難しい性格に変えられてしまうことだってあるだろう。その一方で、閉じた血統の中だけで理想のタイプを固定していくことにも警戒していた。

「俺はあえて系統を混ぜるようにしている。そうすると、生まれてくる犬には何か足りないこともある。骨量が足りなかったり、皺が十分じゃなかったり。でも、近い血縁ばかりで繁殖するのを避けながらいい犬を作ろうと思えば、繁殖に使える血統の幅は持っておかなくちゃいけない」

ちょうどそのころも、スペイン北部のレオンから新しい系統の犬を導入したばかりだった。

「ショーで勝つような犬じゃないよ。でも繁殖には使いたい。レオンの犬が持っているいいところを、自分の犬に取り入れたいんだ」

ショーで勝った一頭を繰り返し使ってタイプを固定するのは、自分のやり方ではない、ということであった。

115kgの大迫力

「おーい、あいつを連れてきてくれ」

ぜひ見せたい犬がいる、とセルヒオ氏がお手伝いの男性を呼んだ。しばらくすると、太いリードにつながれた一頭の犬がこちらへやってきた。それは、ライオンと雄牛をかけあわせたような圧巻のオス個体。

「115kgあるんだ」

セルヒオ氏は何度もそう繰り返した。頭部のボリュームのたっぷりさはいうまでもなく、脚はパワフルで真っ直ぐ太く。コート・カラーはもっともマスティン・エスパニョールらしい色であるフォーン。動作はやっぱり典型的牧畜番犬だ。しばらく神々しい立ち姿を披露してくれたものの、たいして面白いことが起こらないと分かると、巨大犬はその場にノソリと伏せた。時は夏、午後の昼下がり。ちょうどそこは木陰が涼しいお屋敷のポーチ。赤く重いマホガニー・ドアの前で寝そべり始める。犬種の歴史本のイメージそのままであった。

「きっと俺のことを変なやつだと思ってるだろう。自分の犬はいい、いいって、そればっかり言って。でも、わかってほしいよ、この犬種への情熱を」

と氏は胸に手をあてていた。私に喋りかけたのだと思うが、なんだか独り言のようにも聞こえた。なので相槌もうたずに、彼の「巨大な傑作品」を見ながら、現実離れしたこの空間をもうしばらく味わっておくことにした。