犬の飼い主、達人への道

文:北條美紀


[Photo by Simon Berger] 

前回の記事、『犬と幸せに暮らすために大切なチョッカンは、直感?直観?』の中で、犬の飼い主には直感を土台に直観力を鍛えることが必要ではないかと書いた。今回は、そこではあまり触れることができなかったドレイファスモデルを基に、直観力を鍛えることで、どのようにして「達人」の域に達するのかを見てみようと思う。果たして、「犬飼いの達人」あるいは「ドッグスポーツの達人」になるには何が必要なのだろうか。このモデルをとおして、現在の自分のレベル感を掴み、これから目指すレベルについて確認していただければ幸いだ。

ドレイファスモデルって?

1970年代、アメリカの哲学者ヒューバート・ドレイファス(Hubert Dreyfus)とプログラマー出身で生産工学者のスチュアート・ドレイファス(Stuart Dreyfus)兄弟が「人はどのようにスキルを習得し極めるのか」についての研究を行い、スキルを習得するのに通過する五つの異なる段階を示した(ドレイファスモデル)。彼らの研究対象は、チェスの達人やパイロットなど高度な専門的スキルを要する人たちであったが、現在では幅広い領域に応用可能であると考えられている。もちろん、「犬を読む」「犬をトレーニングする」というスキルについても見事に当てはまるのだ。

ドレイファスモデルの5段階

ドレイファスモデルでは、スキルを習得し極めていく段階として「初心者」、「中級者」「上級者」「熟練者」「達人」を想定している。経験年数を積めば次の段階に到達できるという単純なモデルではなく、スキルを実践し続け、新しい認知方法や思考パターンを能動的に習得し、極めていく必要がある。具体的には、「経験」「認識範囲」「決断」「作業意識」によって段階が決まる。

それぞれの特徴は以下のようになる。

初心者:経験がないため何をすればどうなるのかを想定できない。把握できるのは目の前の局所的な事実のみで、「AのときにはBしなさい」といった型通りのマニュアルがあれば対処可能となる。学習意欲に乏しく「今すぐ目の前の状況に対処したい、そのためのマニュアルがほしい」と考える。
中級者:経験のある状況では、多少マニュアルから離れて独力で対処することができる。基本的には初心者と同じく、解決するための次のマニュアルを求める。経験外のことについては「知りません」という姿勢で、全体的な視野を持とうという意欲に乏しい。
上級者:中級者とは異なり、全体的な視野で状況を捉えることができる。状況の成り立ちを概念として理解できるため、新しい状況にも柔軟に対処できる。また、初心者や中級者にマニュアルに沿ったアドバイスができる。ただ、自分の行動を振り返り修正するには至らない。
熟練者:上級者から熟練者になるには大きな飛躍が必要とされる。十分な経験と判断力を持ち、自らを振り返り自己修正を行うことができる。経験しなくてもケーススタディや他者の経験談、格言などから学ぶことができる。状況の原理原則を理解し、特定の状況が求める特定の対応方法が分かる。このため、次に何が起きるかを直観的に理解し対策を取ることができる。
達人:非常に多くの経験を持ち、それを上手に引き出して状況にぴったりしたものに改編することができる。行動は論理的なものではなく直観に従って無意識に行われる。当の本人も「正しいと思った」としか説明のしようがないことも多い。状況の本質が何なのか、関係のない部分はどこなのかを直観的に理解できる。

研究によると、多くの人は中級者に留まり、達人に到達する人は1~5%しかいない。ドレイファスモデルを見ていると、伝統芸能や武術を極めていく人が、「型」を模倣し続ける中から自らの「形」を見いだしていくようなイメージが浮かぶ。私にとっては、犬を飼うことも伝統芸能を極めることと同様に思えるのだが、皆さんはいかがだろうか。

初心者や中級者のように、目の前で起きる局所的な犬の行動に対して対処療法的にマニュアルを求め、それに従う受動的な状態から、全体像を捉えたいと望み、能動的に視野を広げ始めるには何が必要なのだろう。ドレイファスモデルでは、中級者相当であれば、日常の状況に対処するのに困ることはないとされている。だから、困るからという理由ではなく、犬という生き物を知りたい、犬の行動全体の成り立ちを理解したい、自分がどのような影響を及ぼすのか把握したい、そう考える人は上級者へと歩みを進める。そこには、新しく広い視野を手にした喜びがあるはずだ。上級者となって味わうことのできる犬との関わりは、困らないというレベルとは一線を画した幸せなものなのだろう。

ここから熟練者へ飛躍するには、もっと大きなモチベーションと継続的な努力が必要になる。ここから先の、犬の熟練飼い主、達人飼い主の方々がどのような境地に至っているのかは、私の頼りない想像力では語れそうにない。ただ、彼らが多くの経験を積んでスキルを研ぎ澄まし、まさに直観的に無意識に犬と関わる、あの阿吽の呼吸! 鳥肌ものだ。決して言葉では表現しきれないような、彼らだからこそ分かる感覚があるはずだ。そんな感覚を一度でいいから体験してみたい。

おっと、盛り上がってきたところに水を差すようで何だが、未熟な人ほど自分の能力を高く評価する傾向があることを付記しておく。ダニング・クルーガー効果(優越の錯覚)と呼ばれる認知バイアスの一つだ。これは、自分の能力不足を認識できないことからくる過剰な自己評価による。かのチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)も「熟知よりも無知の方が自信の源になる」と語っている。ただし、スキルを十分に習得することができれば、より正確な自己評価に至ることも分かっている。

さて、皆さんの現在地はどこだっただろうか。そして、どこを目指したいと思っただろう。もう一つ上の境地を味わってみたいと思った方は、どこに変化を起こせばいいのか、今一度ドレイファスモデルの表を眺めてみてくださいね。

文:北條美紀
臨床心理士・公認心理師。北條みき心理相談室運営。一万時間以上のカウンセリングを重ねた今でも、人の心は未だ分からず、知りたいことだらけ。尽きない興味で、日々のカウンセリングに臨んでいる。犬と人との関係を考えるために、犬に関わる人間の心理学的理解が一助にならないかと鋭意思案中。

北條みき心理相談室:www.hojomiki-counseling0601.jp