文:尾形聡子
[Image by Sonia Ugarte from Pixabay]
たとえ目が見えなくても、犬は驚くほど「普通に」生活することが知られています。まるで目が見えているかのように歩いたり、あるいは走ったりする姿を目の当たりにしたことのある方もいることでしょう。犬はにおいの世界の住人であることを理解していても、視覚に頼って生きている私たちからすれば、どうして目が見えないのにそんなふうに動けるの?嗅覚だけでどうにかなるものなの?などと、疑問に感じてしまうものです。
犬の嗅覚の感度が高いことは広く認識されています。においをキャッチする受容体の数は人で500万個ほどのところ、犬は2億から10億個も持っています。受容体がキャッチしたにおいは嗅球と呼ばれるにおいを情報処理する脳の組織へ届けられ、そこでにおい信号が増幅されるのですが、犬は人の30倍もの大きさの嗅球を持つことが知られています。しかし、犬の嗅覚系の構造や嗅球から先の脳の情報ネットワークについては未知の世界でした。
そこでアメリカのコーネル大学獣医学部を中心とした研究チームはその未知の領域を明らかにすべく、MRI技術のひとつである拡散テンソルトラクトグラフィー(脳神経や脳領域の神経繊維を描出するもの)を用いて、23頭の中頭の犬(マズルの長さが中程度)の嗅球から脳の皮質領域への接続状態をマッピングしました。そしてその結果に対してKlingler dissection法という解剖手法を用いて検証を行い、「なぜ犬は目が見えなくても普通に動けるのか?」を説明する大きな一歩を示しました。
[image from Wikipedia] ヒトの脳の神経繊維を可視化した拡散テンソル画像(DTI)の例。
研究チームはMRIと解剖から、犬の嗅球から大脳皮質に直接つながる広範な白質(神経繊維の束)ネットワークを発見しました。本能的な行動の引き金となる皮質脊髄路、においの知覚に関与すると考えられている梨状葉、記憶や感情を処理する大脳辺縁系、記憶を正常に働かせる嗅内野、そして嗅覚系と視覚処理を司る後頭葉とをつなぐ白質の回路の5本の神経伝達経路が犬の嗅球とつながっていたのです。
人の場合、特定のにおいを嗅いだとき、そのにおいから過去の出来事を思い浮かべることができるのは、このような回路があるためです。ですが、最後の後頭葉と嗅球をつなぐ路は人には見られないもので、犬は嗅覚と視覚とを複雑に統合させていることがここで初めて示されました。これがあるために、犬は視力を失ってもそれを嗅覚で補って目が見えているように動けるのかもしれない、と研究者らは考察しています。そして、犬が嗅覚刺激をどのように感覚機能に統合しているかを解明していく上での大きな一歩となったと述べています。
今回は中頭の犬(雑種20頭とビーグル3頭)を対象に解析を行いましたが、犬は短頭種から長頭種までさまざまです。見た目の違いもさることながら、脳領域の構造も異なっていることが2019年のMRIを使った研究で発表されています。そのような構造の違いが、今回見つかった犬の嗅覚の神経回路にどのように影響を与えているのかを調べてみるのも興味深いかもしれません。脳の構造の違いと嗅覚との関連性が見つけられれば、嗅覚を使って狩猟をする犬種や、嗅覚を使った仕事をする犬(災害救助犬やがん探知犬など)の繁殖にも役立てていけるかもしれません。
[image from Journal of NeuroscienceFig1] 上記の2019年の研究で示された、異なる12犬種の犬のMRI画像。
ともあれ今回の研究で何よりもすごいことは、「なぜ犬は目が見えなくても普通に動けるのか?」の謎に大きく近づいたことです。この結果を支持する理由として、「ボール、ロープ、コング…犬はおもちゃをどう思い浮かべているのか?」で紹介した研究が挙げられると思います。その研究では、家庭犬が暗闇の中でにおいを嗅いで正しいおもちゃを選べることが示されており、すなわちそれは視覚が使えない状態でも特定のものを「においで見る」能力が一般的に犬に備わっていることを意味すると考えられるからです。
そして、「視力聴力に問題がある犬は、犬生を楽しめないってほんと?」で紹介した研究では、感覚に問題がある犬と健康な犬との間にはいくつかの違いがあるものの、障がいを抱えていてもコミュニケーション能力が低いわけでもなく、アクティビティも種類を選べば問題なく楽しめることが示されています。とくにノーズワークやトラッキングなど嗅覚に依存するアクティビティは目が見えなくても参加しやすいものです。視覚に障がいを持つ犬と暮らしている方にはぜひこちらの記事もご覧いただければと思います。
また、視力を失うと別の感覚が発達してくることが人の研究で示されています。新たな脳内ネットワークが構築されるというのです(以下の記事を参照)。視覚に依存する人であってもこのようなことが起きているのであれば、視覚と嗅覚との脳内ネットワークがすでに存在していることが示された犬にとっては、視覚情報を得られなくてもにおいでものを見る情報処理への切り替えがそれほど大変ではないのかもしれません。犬にとっては視覚を失うことよりもむしろ嗅覚を失うほうが深刻なダメージとなる可能性があることを考えておくべきかもしれないとも感じます。
【参考文献】
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