文と写真:尾形聡子
私が犬の遺伝について興味を持つようになったのは、スパニッシュ・ウォーター・ドッグ(SWD)のタロウとハナを迎えるにあたってだった。バブル期の大型犬流行りの名残で股関節形成不全を患う犬がまだまだ多かった頃だ。もともと私は繁殖することを夢見て2頭を迎えた。SWDはあまり遺伝病が発症していない犬種で、繁殖する際には股関節の検査とPRA(進行性網膜萎縮症)のチェックをすればいいというくらい。ようやく2歳を過ぎたころに彼らの股関節の検査を行ったのだが、残念ながら結果はどちらもよくなかった。股関節検査にまつわる話については藤田りか子さんの『股関節形成不全のチェックとブリーダーそしてケネルクラブの役目』をぜひともご覧いただきたい。
ハナはまだしもとりわけタロウの股関節の状態はひどく、繁殖犬として子孫を残すことには適さないと判断せざるをえなかった。繁殖するのを楽しみにしていただけに、その時のショックは今でも忘れられない。そして股関節の悪い犬とどのように生活をし、どのようにして運動させたりすればいいのかとかなり悩んだ時期もあった。が、幸い現在15歳にしてもそこそこしっかりと歩いてくれている。ハナはまだ軽く泳いだり、ボール投げもできるくらい。とても幸せなことである。
検査結果を見て繁殖の夢は諦めたものの、それを何か違う形にしていくことはできないかと考えるようになっていった。SWDがあまり遺伝病を発症しない犬種のため、それまで真剣に他の遺伝病などを調べることはなかったのだが、これをきっかけに犬の遺伝や病気についての勉強をひとりコツコツと始めてみた。
勉強を重ねていくうちに、犬にはたくさんの遺伝病があることを知った。調べれば調べるほどどんどん出てくる。もちろん人にだって遺伝病はたくさんある。けれど、人が管理して繁殖をしている犬たちにこんなにも遺伝病があるなんて・・・どうしてこんなにたくさんあるのだろう?と。と同時に、健康な犬と暮らしていけることがどれほど幸せなことか、病気を発症しない繁殖を心がけることがどれほど大切かを痛感してきた。
誰だって、ワクワクして迎えた犬が致命的な病気を持っていたら、ショックを受けないことなどあるはずがない。遺伝病が犬との楽しい生活を阻み、世話や治療費などで多大な負担がかかることもある。結果、犬を手放してしまう人も決して少なくないだろう。もちろん病気にかかった犬自身、生きていくのが苦しかったり痛かったりすることもあるし、短い生涯になるのを避けられないこともある。そもそも遺伝子の変異だけが原因となって発症する、狭い意味での遺伝病は治療することができないものばかりだ。
遺伝するのは病気だけではない。犬種によって行動の特徴が違うのも、見た目の形や大きさが違うのも、遺伝が大きくかかわっている。それぞれの個性をつくりあげているのは遺伝的な要因もあれば、環境要因もあり、100%遺伝が決めているものもあれば、性格のように遺伝と環境半々と考えられているものもある。
このような経緯があり、遺伝という小難しい感じがする学問分野をより身近に感じてもらえるよう、見た目にわかりやすい犬の毛に着目して遺伝現象を自分なりに説明をして本に著してみた。それが『犬の遺伝学』の本だ。犬の毛色や被毛の遺伝はそれほど複雑なものではないから、遺伝の基礎的な仕組みを理解しやすい。しかも、特定の毛色には強く病気が関わっているものがあり、遺伝病についても考え及ぶことができる。たったひとつの遺伝子変異が、二つ以上の形質に影響を及ぼすのは毛色だけでなく、病気を含めあらゆるところで見られる遺伝現象でもある。
毛色遺伝のことを知れば、たとえば好みの色だからという理由だけで犬を選ぶことはしなくなるかもしれない。逆に、病気になりやすい毛色だからと、やみくもに避ける必要もなくなるだろう。
ちなみにこの度犬曰くから創刊した『Retrievers and all about them』ではレトリーバー6犬種の毛色について、その遺伝背景の解説をしてみた。遺伝の基礎的な部分の説明は最低限にしてあるが、レトリーバーに興味がある方にレトリーバーの毛色遺伝についての造詣を深めていただければ、この上なく嬉しい限りである。
毛色や病気だけではない。どんなことを犬と一緒にやりたいかによっても選び方は変わってくるだろう。それについては藤田りか子さんの『犬も氏か育ちか?』をご一読あれ。また『コロコロとスリム、二つのタイプのラブラドール・レトリーバー』に書かれているように、たとえ同じ犬種であっても違いが歴然としている犬種もある。そこに個体差もくわわってくる。そういった違いをつくりだしている大きな原因のひとつが遺伝であるのは確実なのだ。
繁殖する立場でなくとも、ともに暮らす犬を選ぶ私たちが少しでも遺伝の知識を持てば、余計な心配をせず、より健康で、犬との生活で何をしたいかというビジョンに見合った犬を迎えるための選択の目を持つことができる。そうした一般の飼い主たちの知識が、ひいては繁殖者にフィードバックされていけば、犬の繁殖事情も向上していくのではと願いつづけている。理想論かもしれない。遺伝子検査で明らかにできることもまだほんの一握りともいえる。
しかし、遺伝は個体の持つ個性を構成する大切な要素であることには違いない。何が遺伝するのかを知り、意識しておくことは、繁殖者にとっても飼い主にとってもかならずや犬をより深く理解するための引き出しとなっていくはずだ。だからどうか、犬を愛する皆さんには遺伝は難しそうだとか、自分の犬が遺伝病ではないから関係ないなどといわず、もっと身近なものだと感じてもらいたい。常々そう願いながらキーボードを打っている私も勉強の日々が続いている。
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