文と写真:尾形聡子
先日の藤田さんの『夫婦喧嘩はラブラドールですら食わぬ』を読み、泣くという行為に対する藤田さんの愛犬の態度はタロウとハナにも当てはまることだと思った。みなさんと愛犬との状況はいかがだろうか?
私もごくまれに、さめざめと涙を流すことがある。そんな様子を見て犬たちは、悲しんでいることをある程度は理解していると思う。実際に、犬は人の悲しみをネガティブな感情として受け止めていることが最近の研究からも分かっている。
日常的に、涙は眼球を保護するために分泌されているが、泣けばそれよりもはるかに多い量がでてくることになり、涙が発するにおいもプ~ンと漂うことだろう。犬は人の感情状態によって体内で変化した物質のにおいを嗅げるのだから、体外に出てくるもののにおいをキャッチするのはお手のもの。加えて、声を上げてすすり泣けば、特殊な音声が発せられる。もれなく犬は「なにかいつもと違うことが起きている」と感じざるを得ないはずだ。
しかし、藤田さんも書いていたように、涙を流す私を見て犬たちが慰めに近づいてきてくれていると確信できたことはない。「どうしたの?」と、普段と違う様子を察知して寄ってくることはたまにある。においフェチで舐めるのが好きなハナはたまに流れている涙をペロリとすることもある。とはいえ、「なんだか悲しそうにしているみたいだけど、それより涙ってしょっぱくて案外美味しいね」とでも思っているのが関の山だろう。そこには「とても悲しいことがあったのね?大丈夫?辛くない?私がそばにいてあげるよ」というような感情はない(と思う。残念ではあるけれど)。事実、犬たちが近づいてきたとしても、いったん様子を確認すればさっと離れて行ってしまう。近くにいてほしいと私が望み、抱きしめようとするが、やはり離れて行きたがる。
そう。ぎゅっと抱きしめようものなら、なおのこと。それを別のところで感じたのが東日本大震災のときだった。
あの日は運よく家にいた。揺れに驚いたのは私だけではない。もちろん犬たちもだ。東京でもずいぶん長いこと大きく揺れた。窓の外に見える電柱があり得ない角度にユラユラしていて、こちら側に倒れてくるのではないかと冷や汗をかいたのを思い出す。もちろんそれまでにタロハナは地震の体験があったが、さほど気にする様子はなかった。しかしあの揺れ、そして相次ぐ余震で、地震というものを警戒するようになっていった。
余震が起こるたびに、私はタロハナと寄り集まっていたいと思った。二頭は度重なる揺れに何かがおかしいと感じている様子なのだが、私の方に近づいてきてくれない。そのうちタロウだけは、「一緒にいよう」というと傍に(我慢して?)いてくれるようになったが、ハナはダメだった。無理やりにでもひとところに固まろうと抱き寄せても、なんとか離れようとする。むしろ、抱かれることを嫌がって私と適度な距離を保とうとしていた。
地震のときもハナには適度なパーソナルスペースが必要なんだ、そう感じた。
犬たちが地震というものをどれだけ理解しているかはわからないけれど、地震は天災であって、天災は身に危険があるかもしれないと生物の勘で把握しているだろう。だからなおさら危険を回避できるよう、自由に動ける状態でいたいと思っていたのではないかと。
人のパーソナルスペースで考えてみれば、それぞれ心地よい物理的な距離は違うし、相手との関係性によっても違う。そのときの状況、性格や生まれながらの気質、文化的なものも影響してくる。個体差があるのは大前提だが、犬も同じではないだろうか。むしろ、犬は大好きな人でも過剰にベタベタされることを決して好んでいないように思う。
悲しみを犬に慰めてほしいというのはあくまでも人の主観でしかない。そして、地震のときに犬たちと寄り添っていたいと思ったのは私の主観であり願望だ。
犬に求めるものは人によって異なる。けれど、犬のパーソナルスペースをできるだけ把握できれば、犬に過度の期待を抱くことも、知らぬ間に犬に無理強いしてしまうようなことも減っていくかもしれない。さらには、お互いの精神的パーソナルスペースがより縮まっていくのではないだろうか。そうなればきっと、阿吽の呼吸を感じられる機会が増えていくはず。なにも物理的な距離が近いことだけが大事なわけじゃない。そんなふうに思っている。
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