文:尾形聡子
[photo by Jay Cross]
こちらの写真、毛の色も長さも違うダックスフントが写っていますが、犬の毛がどのような色や長さになるかは遺伝子によって決められています。カメラ目線の犬のレッドの毛色はその左下隣にいる犬のブラック&タンの毛色より優性の形質です。また、左に写っているのはブラック&タンがベースとなっているダップルで毛質はスムースです。スムースヘアは隣のブラック&タンやレッドのロングヘアよりも優性の形質になります。逆に言うと、ブラック&タンはレッドに対して劣性の形質、ロングヘアはスムースヘアに対して劣性の形質になります。
さてこの優性・劣性という遺伝する形質の呼び方、みなさんはどう感じますか?遺伝形質としてレッドはブラック&タンよりも優性ですが、だからといってレッドが優秀な形質である、とはなりませんよね。しかし、優劣という漢字の持つ意味が、優性・劣性という形質の良し悪しと誤解されるとして、使う言葉が変わることになりそうです。
そもそも、優性・劣性という言葉は遺伝の基本を語るときには欠かせない、メンデルの法則で使われているものです。この遺伝の法則を発見したグレゴール・メンデルは、親から子へと遺伝する特徴、今でいう遺伝形質には現れやすいものと現れにくいものがあるのを発見しました。これまで、現れやすい形質を優性の形質、現れにくいものを劣性の形質と呼んできましたが、この度、日本遺伝学会が優性を顕性(けんせい)、劣性を潜性(せんせい)と言い換えることを発表。ネットニュースでも流れていたので、この発表を目にした方も多いかもしれませんが、いい機会ですので、少し遺伝の基礎のお話をしたいと思います。
なぜ形質に現れやすいものと現れにくいものがあるのか?
それぞれ個体が持つ遺伝子は、精子と卵子を通じて両親から受け継がれたものです。両親それぞれから受け継いだ遺伝子は、まったく同じものもあれば、遺伝子の設計図となるDNA配列が少し違う場合もあります。設計図は実際にタンパク質を作り出す領域から、タンパク質を作るための過程で切り取られてしまう領域(スプライシングによって取り除かれる領域:イントロン)、タンパク質を作る合図を出す領域(プロモーター)などで構成されています。そのどこかのDNAに変化が起こるだけで、現れてくる形質が変化する場合があります。
DNAの変異は、紫外線による損傷や、染色体を複製するときのミスまたは修正のミス、生殖細胞を作る過程で同じ染色体同士の一部が組み変えられることなどで起こります。遺伝子が変異すると作られるタンパク質が変化したり、タンパク質を作れという合図が適切でなくなったり、そもそもタンパク質が作られなくなったりするため、これまでの働きができなくなったり、働きすぎてしまったり、まったく違う働きをするようになったりします。
このように、あるタンパク質が、本来あるべき働きとは違う状態になると、本来の働きを抑えて新しく獲得した機能を発揮する場合もあれば(優性の形質)、片方が変異していなければ影響がない場合もあり(劣性の形質)、そのタンパク質がどのように働くかによって形質への影響も変わってきます。
犬に多い劣性の遺伝病は、ひとつが変異した遺伝子であっても、もう片方の遺伝子が正常ならば身体機能を正常に維持できるので発病することはありません。逆にひとつでも変異した遺伝子を受け継ぐと、その遺伝子が果たすべき役割を果たせなくなり発病してしまうのが優性遺伝病になります。
多くの形質は、複数の遺伝子や環境が影響を及ぼして作られています。たとえば身長や骨格などがその例です。一方で、ひとつの遺伝子だけで形質が決定される場合があります。冒頭でお話したような毛の長短や色、メンデル遺伝病と呼ばれる病気などがそれにあたります。
[photo by joe teft]
ハウンドカラー、いわゆる白・茶・黒のトライカラーの毛色は多くの犬に見られますが、そのベースとなっているのはブラック&タンの形質です。
優性・劣性は形質の優劣ではないのだけれど・・・
日本遺伝学会では、優劣という言葉を使うと、優性の形質は良いもので劣性の形質は悪いものだ、という誤ったイメージを持ちやすいことを、言葉の言い換えの理由に挙げています。確かにそれは私も今まで大いに感じてきたことです。しかしDNA変異はそればかりでなく、生物が進化していく原動力となりますし、生物種が種として生存していくための遺伝的多様性を高める方向へも働くイベントです。
とは言えやはり、言葉の持つイメージというのは大切なもので、誤解を招かないような言葉に言い換える、というのには賛成しています。ただ、顕性・潜性とは遺伝学離れを起こしてしまうのではないかと感じるのは私だけではないのではないかと。優劣ならばまだしも、そもそも顕と潜という漢字をすらりと書ける人がどれだけいるものか・・・(もれなく私も怪しいかもしれません)。
どんな言い換えがいいものか、表性・裏性とか、プラス性・マイナス性(マイナス同士を掛けるとプラスになるので、劣性形質がふたつ揃った時にプラスとして形質が現れやすいというイメージ)などはどうなのだろうとちょっと考えてみるも、それでもやはり、裏、マイナスというのはよくないイメージがありますから、学会も選びに選んで顕と潜になったのだろうと推測してみたり。顕と潜以外にどのような案が挙げられたのか、個人的にはとても興味深いところです。
そもそも優性・劣性は、英語のdominantとrecessiveから訳され使われてきたものですが、漢字は漢字そのものに意味があり、翻訳という作業は想像以上に難しいものだと改めて感じるものです。今回は遺伝学という専門分野での用語の話ですが、犬の専門用語を訳すことの難しさについては、藤田さんがこちらの記事でしたためています。
言い換えが定着するまではこれまでどおり優性・劣性でいきますが、近い未来に顕性・潜性が教科書レベルで広く使われるようになれば、もれなくこちらのブログでも新しい言葉を使っていこうと思います。
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【参考サイト】
・日本経済新聞