なぜ犬は人と特別な関係を結べたのか~菊水健史先生セミナーレポート(3)

文と写真:尾形聡子

なぜ人と犬が特別な関係を結べたのか、認知科学研究の見地からその謎に迫るお話も今回が最終回になります。麻布大学獣医学部動物応用科学科伴侶動物学研究室教授の菊水健史先生による『ヒトとの共生を可能とするイヌの特殊な進化』、日本ペットサミット(J-PETS)主催の例会での講演は10月6日に東京大学農学部で行われました。

Biological bonding に重要なオキシトシンと見つめあい

「絆の形成は最も根源的で社会的な関係です。もっとも研究の対象とされているのは母子関係で、親子の絆についてはさまざまな研究で対象とされてきています。たとえば羊は自分の子羊以外には母乳を与えません。非常に特異的な関係を結ぶことで有名です。」

母子関係だけでなく、アメリカに生息するプレーリーハタネズミは、哺乳類では珍しく一夫一妻制をとることで知られています。プレーリーハタネズミがつがいとなる神経メカニズムについては、現在遺伝子レベルまで解明されているそうです。

「動物に直接聞くことはできませんから、絆について知るには行動で測定するしかありません。どのようにして測定するかというと、特異的な対象として認識するかどうかを見ます。親子でいえば、”私のお母さん、私の子ども”という一対一の関係です。夫婦関係でいえば、ほかのオスやメスをそれぞれ受け付けなくなります。」

このように、お互いがお互いにとって特異的な相手として存在することが、絆の形成のひとつの条件になります。

「もうひとつの条件は、分離・再会したときに特異的な反応をすることです。先ほどもお話ししましたが、特異的な相手と分離することはストレスを高めますが、分離後に再会することでストレスが軽減されて元に戻ります。これを社会緩衝作用というのですが、数値として測定することができます。」

絆形成は、特異的な対象としての認識、そして分離・再会時にあらわれる特異的な反応の二つをもって定義されています。

「絆を形成する神経メカニズムは、ヒツジやプレーリーハタネズミで分かってきました。面白いことに、母子関係であっても雌雄のつがいであってもほぼ同じメカニズムで、そこには同じ分子が関わってきます。それがオキシトシンになります。」

たとえばヒツジの場合、分娩に伴い母ヒツジの脳内ではオキシトシンの濃度が急激に上昇します。そしてオキシトシンが嗅球に作用して目の前にいる子ヒツジの匂いを覚え、”我が子”としての記憶を形成します。またプレーリーハタネズミの場合は、交尾をした後24時間一緒にいるとつがいになるのですが、仮にそれが6時間であるとつがいを形成しないそうです。

「いずれの場合も絆を形成するには、2者が一緒にいるときにオキシトシンの分泌が必要であることが明らかにされました。行動だけでなく内分泌としても脳の中を変化させる物質が出ていて、それが一緒にいるための絆を形成しているのです。このような絆形成のメカニズムが人と犬の間に見られるかどうか、我々は犬からの視線に着目して研究を続けてきました。視線は情報のやり取りだけでなく、愛情表現のひとつとしても人は使っているものだからです。」

菊水先生の最新のオキシトシン研究については『見つめ合いとオキシトシンが人と犬の絆形成のカギに』にて紹介していますが、内容の要約については以下の映像をご覧いただくのがとても分かりやすいです。犬と人という異なる生物間につくられる絆は、オキシトシンと視線を介したコミュニケーションが、ポジティブ・ループによって促進されていることを明らかにしたものです。

「生物的にみて、親子やつがいに見られるような絆形成のメカニズム、”Biological bonding”が人と犬の間にも成立するということを私たちの研究で明らかにしました。」

ではこの”Biological bonding”は、犬だけが進化の過程で獲得した特異的なものなのでしょうか。それとも、どんな種であっても動物を可愛がれば絆はうまれるものなのでしょうか。

「実は最初犬の実験だけをやったのですが、それだけでは犬が特異的とは言えないですよね・・・となりまして。オオカミでも同じような実験をすることにしました。日本中を探しまわり11組のオオカミと飼い主さんに参加してもらい、オオカミと飼い主さんとの自由交流の実験だけ行いました。」

上の映像の終わりのほうに、オオカミと飼い主さんとの実験の様子も紹介されています。講演で流された映像をみても、オオカミは飼い主さんにくっついて甘えたり顔をなめたりしていて、一見まるで犬のようでした。しかし、やはり犬とオオカミには違いがありました。

「むしろ犬よりも積極的にオオカミは飼い主さんとかかわっているようにも見えますが、オオカミは正面から飼い主さんの顔を見ることはありません。犬ならばまず不安で飼い主さんを見るような状況でも、オオカミはみません。オオカミにとって見知らぬ空間での実験でしたので不安はあったはずなのですが。チラチラ横目で確認するような見方はしても、11組すべてのオオカミは犬のように飼い主を見るようなことはありませんでした。」

オオカミと飼い主さんの触れ合いは積極的でありながらも、じーっと見つめあうような時間がまったくなかったということです。また、犬と人との場合とは異なり、オオカミと人はお互いに触れあいながらも両者ともにオキシトシンの上昇は見られませんでした。また、犬と人の場合でも、ポジティブ・ループが成立するためには犬が見つめるところからスタートする必要があるそうです。

「こうして、オキシトシンと視線を介したポジティブ・ループは、犬に特異的なものであると言えるに至ったのです。」

なぜ犬はそんなに特別になったのか

「では、なぜ犬はそんなに人と特別な関係を結べるようになったのかと考えるのですが、それは共生の歴史が長い、ということに尽きると思います。犬以外の動物の家畜化は、だいたい1万年ほど前から行われていますが、犬は最低でも1万5千年前、最近の遺伝学や考古学の研究からすると4万年から5万年前から人と生活を共にしていることが分かってきています。」

ほかの家畜たちと比べると、犬は4倍も5倍も昔から人と共に暮らしていたことになります。

「犬が家畜化された時代に人は狩猟採集をしていました。そのとき人はまだ定住生活をしていなかったので、犬は人の集落に寄り添い生活を共にし、移動するときには一緒に移動していたわけです。おそらく人の動きを見ながら近くですごし、人の動きに従う能力を4万年から5万年の間に獲得してきたのだろうと考えられます。そうして人と犬の関係は家族の一員のようになり、絆を形成ができる関係へと到達したのではないかということなのです。一方、ほかの動物が家畜化された時代には農耕が始まっていました。その当時、猫は穀類の倉庫番として飼われていて、生活を共にするために飼われていたわけではありませんでした。それ以外の動物は基本的に食料のために家畜化されています。遅くに家畜化された動物との間に絆の形成がないわけではないですが、犬に比べると普遍的な絆形成には弱い関係性ではないかと思います。」

では、犬だけが古くから人と共生できるようになったのはなぜなのでしょうか。

「犬は人のことを理解できるようになったから共生ができている、というわけではありません。順番からすると、共生できたあとにそのような能力を獲得してきたのです。一緒に暮らさないと収斂進化にはなりませんから。つまり、犬は人と暮らし始める前に、オオカミと分かれる特徴を持っていなくてはならないはずだったのです。それはなにかというと、社会的寛容性(social tolerance)になります。」

講演の最初で出てきましたが、社会的寛容性とは他者の存在を受け入れることです。

「社会的寛容性が上がり他者の存在を受け入れるようになった犬は、それと共に、見知らぬ他者に対する攻撃性や恐怖心が低下するようになりました。」

現在、オオカミと犬において、社会的寛容性や攻撃性、恐怖などについてのテストを行っても、両者の間には明瞭な違いが出てくるそうです。

「つまりオオカミは怖がりで、不安が高くて森に残ったのです。一方、犬は多動で楽観主義で、社会的寛容性も高く草原に出てきたと考えられます。」

そして社会的寛容性の上昇は、人とチンパンジーを分かつことにもなった能力なのだと言います。

「チンパンジーは社会的寛容性が低い生物です。見知らぬ群れがやってくれば殺します。人とチンパンジーを分かつ点と、犬とオオカミを分かつ点では、非常に似た変化が起こっていただろうことが示唆されています。人は草原に出てきますが、チンパンジーは森に残ったのです。そうして草原に出てきた人と犬が偶然出会うことになります。それがいつ、どこで起こったかは分かりません。しかし、出会った時点ではお互いに社会的寛容性が上がってきていましたから、お互いにそばにいることが出来たのです。」

本来なら殺してしまっていただろうオオカミに似た犬を殺さずにいた、社会的寛容性の高い人の集団が存在していたはずで、犬の中でも人のことを襲わない集団が存在していたと考えられるのだそうです。

「どのようにして距離が近くなっていったのかは分かりませんが、お互いに”まあいいや”でそばにいたことによって共同生活が始まるわけです。そうして、狩猟採集の移動生活を共にすることになります。生活を共にしている間に、犬は人とコミュニケーションをとるための高い認知能力を獲得することができました。お互いが阿吽の呼吸で生きていくだけではなく、情緒的なつながりも生まれてきたのです。視線を介して、まるで家族のような関係性が作れるようなメカニズムまで発達させてきた、ということが分かったわけです。」

人と犬が出会った頃は、犬は人と暮らすことで食べ物を得たり、ときに外敵から守ってもらえるなどの利益があり、人は犬と暮らすことで番犬として、狩猟の友として、物を運ぶ手伝いをしてもらうなどの利益があったと考えられています。

「そこから長年をかけて人と犬との関係性は変わってきて、現代では絆の形成ができるようになっていることが分かっています。アリストテレスが”Human beings are by nature political animals, who naturally want to live together.” という言葉を残しています。political をどのように訳すかは人によってさまざまなのですが、私は社会的な、すなわち、一緒に住む、ということだと思っています。群れとして皆と一緒に住むこと、絆が形成できる犬と一緒に暮らすことも人らしい行動だという意味も含まれていると感じています。」

***

犬の認知研究のこれまでの流れ、そして全体を見渡すことのできるとても素晴らしいお話を聞くことができました。これからの研究によって、犬の特別な能力がさらに科学的に明らかにされていくことと思います。次回は講演の後の質疑応答の様子を紹介したいと思います。

 

(本記事はdog actuallyにて2016年11月29日に初出したものを一部修正して公開しています)

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