文と写真:尾形聡子
目の前にある命が助けられるならば・・・
普段そう思っていたとしても緊急事態に陥れば、自分の身をどうにかすることで精いっぱいになったり、応急処置の方法が分からずに慌ててしまったりして、冷静に対応するのは難しいことかもしれません。私自身、幸いにも大きな災害や事故に遭った経験がないままに生きてきているので、尚更そのように感じています。しかし犬たちと暮らしている今、彼らの命を守るにはどうすべきか、自分には何ができるのか、しっかりと把握し備えておかなくてはならないとも思っています。
とはいえ、実際に何かが起こるまで準備を怠りがちなのも人の常・・・そんなところに、ひょんなことからある記事を目にする機会がありました。危機管理と BCP の専門メディア、リスク対策.com にて連載が始まった『ペットライフセーバーズ:助かる命を助けるために』。連載の初回は”楽しく学ぶ、消防関係者のためのペット救急法“というタイトルの記事でしたが、消防関係者のみならず、そこには一般の人々も知っておくべきとても大切なことが書かれていました。
たとえば氷の浮かぶ極寒の湖に落ちてしまった犬を、レスキュー隊員が救助するような動画を見たことがある方も多いと思います。そのような救助は一般人には到底できることではありません。しかし、道すがらすれちがった犬が突然心臓発作で倒れてしまう場面に居合わせたら、みなさんはどうしますか?心臓マッサージをすることはできるでしょうか?それとも近くの獣医に駆けつけますか?そしてこのようなことは、皆さんの愛犬にもいつ何時おこらないとも限りません。
連載の著者は、日本そしてアメリカで、レスキュー隊員として数え切れないほどの命を救い、そして失われていく命も目の当たりにしてきたサニー カミヤさん。現在、一般社団法人 日本防災教育訓練センター代表理事として、あらゆる角度から災害に対応していけるよう、さまざまなセミナーやワークショップの開催、執筆活動、子どもへの啓蒙活動などを精力的に行っています。そんなサニーさんに、ペットレスキューにまつわるお話しや活動について伺ってきました。
日本でのペットレスキューに対する意識を変えていきたい
日本そしてアメリカでの救助経験、さらには世界各国の消防事情を見てきたサニーさんは人命救助のみならず、日本でペットレスキューの普及に向けての活動も続けられています。
「アメリカはとても真剣にペットレスキューに取り組んでいます。アメリカだけでなく、カナダ、ドイツ、フランス、オーストラリアなどでペットレスキューの現場や組織で働く方々と意見交換をしたことがあるのですが、その時に感じた日本と諸外国の大きな違いは、レスキュー隊や救急隊に限らず、一般の人でも”すべての命を救うことに本気であること”そして、”共に生きるためのモラルが高い”ということです。」
日本の消防は世界的に見ても引けを取らないどころか、いまや世界で一番優秀だといいます。しかし、なぜ日本はペットレスキューに対する意識レベルがなかなかあがらないのでしょうか。
「たとえば日本では、世間話で海外との比較をして場が賑わうことはあるのですが、それが特定の団体に対してとなると、海外と比較されることをとりわけ嫌がります。たとえば、”日本では前例がなく、実現する予算もない”といったことがまるで口癖かのような共通のバリアウォールがあって、なかなか海外から新しいことを受け入れようとしないことが、ペットレスキューへの理解が深まらない原因のひとつにあると思います。」
そしてサニーさんは当時を振り返り、こうお話しされました。
「日本でレスキュー隊員だったとき、さまざまな火災現場でペットを助けられなかったことを今でも忘れられずにいます。壁に挟まってしまったペットのレスキューなどは行ってはいましたが、そもそもその当時は、火災現場で意識不明になっているペットに救急処置をするというような意識そのものが持たれていませんでした。現場でのその子たちの姿が頭の中に映像として残っているため、日々思い出すたびに謝罪し、そして供養しています。彼らの死を無駄にはしないと心に決めていますので、日本でのペットレスキューに少しでも力を添えていくことで償えればと思い、活動を続けているのです。」
これまでにどのような経験を経て、サニーさんはこのような思いを抱くようになったのでしょうか。現在に至るまで道のりを伺ってみました。
レスキュー隊員から渡米、そして約20年ぶりに日本に戻り・・・
福岡で消防局に入局後、レスキュー隊員になるきっかけとなったのは、ある上司の存在でした。
「上司から”たるんだ考えを鍛え直してこいっ!”と、なかば強引な推薦で救助専科というレスキュー隊員を育てる専門課程に入り、その日から私の本気の人生が始まったのです。20歳の時でした。」
専門課程を終え、無事にレスキュー隊となったサニーさん。配属された先では元プロボクサーの隊長のもと、まるでタイガーマスクの”虎の穴”ような、もはや厳しさをも通り越した訓練が続く日々。隊長を追い抜け追い越せと、寝る間も惜しんで毎日16時間のトレーニングに励んでいたそうです。
「気力体力ともに隊長に打ち勝てるようになってから数年後、昇任試験に合格してレスキュー隊の小隊長となりました。さらにその数年後に、国際消防救助隊(International Rescue Team of Japan Fire-Service:IRT-JF)が発足され、そのメンバーの一員となりました。そのときに、当然のことなのですが、世界中に消防局ってあるんだ、ということに気づきました、笑。」
レスキュー隊員として活動する中、各国それぞれに救助法や救急法があるにもかかわらず、当時の訓練マニュアルの参考文献のほとんどがニューヨーク市消防局のものだったことにもサニーさんは気づきます。
「ニューヨーク市のレスキュー隊は、いったいどこが自分たちよりも進んでいるだろう?と、どうにもこうにも気になってしまいまして。ニューヨーク市消防局のレスキューカンパニーの隊長宛に手紙を書いたんです。その縁もあって福岡市消防局を辞め、ニューヨークへ渡って救急隊員になりました。」
また、それと同時に国際消防情報協会の企画調査員にも着任。そこでは世界34ヵ国の消防局を調査し、さまざまな消防事情を視察、体験し、『近代消防』という消防雑誌で『海の向こうの消防事情』というタイトルでの連載を始めました。
「連載を読んだ日本の消防士の方から”是非とも世界の消防を見てみたい”という声をいただくようになりました。意外に思われるかもしれませんが、その当時、1995年ころの日本では、海外の消防事情がほとんど知られていなかったんです。そんなこともありまして、日本の消防士のための海外派遣消防研修コーディネーター事業も15年ほど行っていました。」
ニューヨークで現役の救急隊員、そして国際消防情報協会の企画調査員としての二足の草鞋を履いて忙しく活動していたところ、勤め先の救急病院で教誨師(チャプラン)との出会いがありました。
「日常生活の中では馴染みがないかもしれませんが、教誨師とは、末期ガンで死を迎えそうな方とご家族のために病室でお祈りして魂の旅立ちを祝う儀式を行ったり、人生に迷いを感じて自殺を企図する方々、受刑者で改心し社会復帰を目指している方々などの心の拠り所、かつ、メンターになる仕事をする人です。そのような活動にとても興味を持ったため、教誨師になるために牧師になる道を選択しました。」
レスキュー隊から牧師の道へと進んだサニーさんは、その後マウイ島に移住。マウイ島を守るシャーマンの方々に教えを受けながら、ハワイアン・ビーチ・ウエディングや散骨式、地鎮祭などを行いながら約20年間マウイ島で過ごします。そして2013年から再び日本で暮らすことになり、久しぶりの日本の現状を目の当たりにすることになります。
「私がニューヨークへ向かった20数年前と、日本の消防・防災の事情はほとんど変わっていませんでした・・・。どうして状況が改善されていなかったのだろうかと強い疑問や危機感を抱いたのです。ならば、”災害に強い人”を育てていこうと思いまして、一般社団法人日本防災教育訓練センターを立ち上げたのです。そこからさまざま事業を始め、ペットレスキューもその中のひとつですが、今日に至っています。」
次回は日本でのペットレスキューの状況や、サニーさんの行われている活動についてご紹介します。
【参考サイト】
(本記事はdog actuallyにて2016年7月12日に初出したものを一部修正して公開しています)
【関連記事】
https://inuiwaku.net/?p=9907