犬の視覚は考えられている以上に明瞭か?

文:尾形聡子

[photo by Geoffrey Fairchild]

外界からの刺激を感じるとき、人は視覚に頼りがちのため、ついつい愛犬にも同じようにものが見えていると思ってしまいがちかと思います。一般に、犬は色が分からないとか人よりも視力が悪いなどといわれることが多いですが、人と犬とではそれぞれものの見え方が異なります。先日の『犬の見る世界に鮮やかな赤や緑は存在していない』では犬の見る世界の色についてお伝えしましたが、今回は、犬はこれまでに人が想定していたよりも視力がいい可能性があるという報告について紹介したいと思います。

人と犬の眼球は、大まかな構造は似ているものの細かな部分が異なるため、ピントを合わせるスピードや光に対する感受性などが異なり、見え方に違いが生じています。違いのひとつに、犬は人のように色を識別することができないことが挙げられますが、色の識別能力の違いはそれぞれの網膜と呼ばれる組織の解剖学的構造の違いにあることが分かっています。

眼球の奥の壁をおおう膜状の組織である網膜は、外界からの刺激を受けると、網膜に存在する視細胞(光受容体)を通じで光を電気信号に変換して視神経を経由し、最終的に脳へと情報が伝達されていきます。外からの情報を最初に受け取る役割を持つ視細胞には、錐体細胞(すいたいさいぼう:cone cell)と桿体細胞(かんたいさいぼう:rod cell)という2種類の細胞があります。

犬の目の構造。(Liebich著『Funktionelle Histologie』より)

なぜ物がよく見えるのか?

これら2種類の細胞はそれぞれ働きが異なっており、おおまかにいえば、錐体細胞は明るい場所で働く細胞、桿体細胞は暗い場所で働く細胞になります。錐体細胞が働くには十分量の光が必要とされ、光の波長から色を感じとっています。一方桿体細胞は光に対する感受性が強いので、わずかな光でも働くことができるのですが、基本的に色の感知はしないためにモノクロで物体をそのまま見るように働きます。

色を感知する錐体細胞には種類があり、それぞれが波長の違う光を感知します。鳥類やトカゲなどの爬虫類、魚類などは錐体細胞を4種類持つ4色型色覚であり、一部の鳥類や蝶などは5色型色覚を持つといわれています。一方哺乳類は進化の過程で4色型から2色型へとなったため、現存する多くの哺乳類は2色型色覚となっています。犬はこれにあたります。人や一部の霊長類は、さらなる進化の過程で失ってしまった波長を感じられる錐体細胞を再び獲得し、3色型色覚となりました。とにもかくにも、それぞれの生物種によって眼の構造は異なり、見え方もそれぞれに違うのですが、錐体細胞の種類を多く持つ生物ほど視覚が明瞭な、いわゆる”眼がいい”傾向にあります。

私たち人間の明瞭な視覚は、網膜の中心にある黄斑と呼ばれる黄色い丸い斑点の、さらにその中心部にある中心窩(ちゅうしんか)という小さな小さなくぼみが非常に重要な役割を果たしています。網膜にある2種類の視細胞の分布は均一ではなく、中心窩には錐体細胞が密集しているため、明瞭な視覚を得ることができているのです。つまり、中心窩は目の中で最もよく見える場所であり、物の細部を正確に見るための重要な場所になっています。

しかしこの中心窩は、哺乳類の中では人と一部の霊長類にしかなく、犬には中心窩が存在していません。中心窩を持たない犬や猫などにおいて、最も視力のいい領域は網膜中心野と呼ばれ、中心窩ほどではないにせよ、錐体細胞の密度が高い領域となっています。ちなみに哺乳類以外では、鳥類、爬虫類、魚類に中心窩が存在していることが分かっています。

このように中心窩は、哺乳類の中では人と一部の霊長類のみにある特徴的な構造とされていたのですが、犬の網膜中心野に存在する視細胞の緻密な観察により、犬にはくぼみはないものの、人の中心窩のように錐体細胞の密度が非常に高い領域が存在していることが明らかにされました。長きにわたる視覚研究の歴史において、今になってようやく、犬のこの”中心窩に似た領域”が存在することが確認されたのは、驚きに値する発見だったと研究者はいいます。さらに、犬の中心窩に似た領域に発症する眼の病気という点でも、犬と人とは類似していることが分かったのです。

[photo by Olis Olois]

思いもよらない発見、人の中心窩に似た領域を持つ犬

犬にある、人の中心窩に似た領域は、別の研究をおこなっている最中に偶然発見されたものでした。それは、研究者が、人のX連鎖性網膜色素変性症という遺伝病と類似した病気を引き起こす遺伝子変異を持つ犬の網膜を調べているときのことです。

犬の網膜の中心部には網膜中心野と呼ばれる錐体細胞の密度が比較的高い領域があることが分かっていましたが、その数は人の中心窩ではミリメートル角に100,000のところ、犬の網膜中心野では29,000と人に遠く及ばないという報告がこれまでにされていました。しかし今回、犬の網膜を詳細に調べたところ、ミリメートル角に120,000の錐体細胞が存在する小さな領域があること、つまり、人の中心窩と同様の錐体細胞密度を持つ領域があることが分かりました。さらに、その中心窩に似た領域では、視細胞が変換した電気信号を脳に伝える視神経の密度が高くなっていることも明らかになりました。

人の眼の病気との類似性

人の眼の病気に、黄斑部が変性していく遺伝病がいくつかあります。黄斑の変性を引き起こす、X 連鎖性網膜色素変性症や卵黄様黄斑ジストロフィー(ベスト病)の原因となる遺伝子(BEST1、RPGR)の変異型を持つ犬を調べたところ、網膜の縁からではなく、視覚に重要な黄斑のある中心部から障害されていくという病態の進行も、犬は人と同じであることが分かりました。このことから犬は、X 連鎖性網膜色素変性症や卵黄様黄斑ジストロフィーをはじめとする、人の中心窩や黄斑部の変性症のモデル動物として、新薬の開発や臨床研究などの今後の橋渡し研究おいて重要なポジションとなる期待がもたれることになりました。

犬の眼の遺伝病は、これまでに、少なくとも18の原因遺伝子の変異が58犬種でみられたとの報告がされており、中でも網膜に関係する病気がその大半を占めています。網膜が遺伝的要因にさらされやすいという点も、人と犬とに共通する特徴です。

また、眼皮膚白皮症で中心窩のくぼみを持たない、fovea-plana と呼ばれる、人では非常に稀な病気があります。中心窩部分の錐体細胞の密度は正常域に達しているため、中心窩のくぼみはなくともある程度の正常な視力を持ちます。この解剖学的な構造は犬ととても類似しているともいうことができるのですが、今回の発見により、精密な視覚にはいったい何が必要とされるのかという研究にも一石を投じることになりそうです。

[photo by Iain Farrell]

犬はもっと見えている?

今回の研究の中で興味深く感じたのは、色の見え方こそ変わりませんが、犬が人の中心窩に似た構造を持っていることが明らかにされ、私たちがこれまでに予想していたよりも犬はより明瞭に物が見えているかもしれないということです。また、視覚を使って狩猟を行うサイトハウンドは、セントハウンドが他の犬種よりもさらに優れた嗅覚を持つのと同様に、とりわけ視覚がいい(錐体細胞密度が高い)可能性があることが示唆されます。犬のにおいの世界を人が感じるには、残念ながら遠く及びませんが、犬の見えている世界がどのようなものなのか意識してみることは、私たちにもある程度できることと思います。さらに研究が進められ、犬の瞳にはどのような世界が映っているのか、その真実が明らかにされる日は、もしかしたらそう遠くないかもしれないと思うのです。

(本記事はdog actuallyにて2015年2月24日に初出したものを一部修正して公開しています)

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【参考文献】
Canine Retina Has a Primate Fovea-Like Bouquet of Cone Photoreceptors Which Is Affected by Inherited Macular Degenerations. PLoS One. 2014 Mar 5;9(3):e90390.