文と写真:アルシャー京子
大型犬だから寿命は短くても仕方がないのか?
犬を含む家畜の繁殖には、「繁殖衛生」という概念がある。
この言葉は、そもそも感染症予防のための衛生管理に使われていた言葉で、これまでの犬の繁殖時の衛生概念では、寄生虫やブルセラ症など犬の交尾や出産を通して寄生虫や細菌類が伝搬されることを防ぐものであったが、実は、いまやこれらは英語圏を中心とした国々での概念でしかない。
ドイツ語圏では、これら感染症は繁殖衛生ではなく母犬の通常の健康管理の一部となり、この10年ほどはむしろ股関節形成不全(HD)や肘関節形成不全(ED)、進行性網膜萎縮症(PRA)など、遺伝子の異常によって次世代に伝搬する類いの疾患や血縁の濃さによる疾患などがその意味に取って代わった。つまりこの「繁殖衛生」という言葉は、ドイツ語圏においてその概念の中心に繁殖を通して伝搬する疾患全般の予防を意味するようになったのである。
今回はこの繁殖衛生について、ドイツの「スイス・マウンテン・ドッグ協会(Schweizer Sennenhund Verein für Deutschland e.V.)」の取り組みを例にお話してみたい。
※ スイス・マウンテン・ドッグとは、日本でも人気のバーニーズ・マウンテン・ドッグほかスイス原産の荷引き犬種全4種(いずれも荷引きに向いたがっちりとした体つきと黒を中心としたトリコロールのコートカラーが特徴的で共通)のことである。
90年代のはじめ、このクラブでは生まれてくるバーニーズ・マウンテン・ドッグの犬達の平均寿命の短さが問題視されていた。若くして何らかの原因で犬が死に、しかしそれに関してクラブにフィードバックされる情報はほんの一部しかなく、しかも口コミで伝わるものがほとんど。例え犬が若くして死んだとして、飼い主はそれに驚いたとしてもどことなくその事実を受け止めるだけで、書類として残る形での犬の死亡報告は極めて稀であったことから、クラブは犬の死因についてなかなか知ることが難しかった。しかしその現象の原因が一体どこにあるのか、犬種の将来を担うクラブとしては知るべき問題であった。
そこでクラブは当時全会員にアンケート用紙を配り、これまでに死亡したバーニーズ・マウンテン・ドッグの死因についての調査を始めた。何が原因か分からないから、まずはできるだけ多くの会員に聞くしかない、何かしらのとっかかりを見つけるために、手当たり次第アンケートは行われたのである。そして2007年までに集められたアンケート結果は5100件を超え、その甲斐あって、中でも2006年に行われたアンケートでは、1997年から1999年にかけて生まれたバーニーズ・マウンテン・ドッグのうち8-10歳まで生き延びている個体は約3分の2という結果、その死因の多くはガンであったことが分かった。
またこのクラブでは同時に、極端に頻繁に交配に使われるオス犬数頭についても懸念を抱きはじめていた。その理由は、実は当時、1頭のオスを父犬とする子犬が国内だけでなんと740頭も生まれていたこと、さらには国外でもこのオス犬は交配が行われて、たった1頭のオスの遺伝子が極めて広範囲にわたり拡散されていたことにあり、その事実を踏まえ平均寿命を縮める疾患の蔓延の原因を探るためにも、クラブは即座にこれを警告した。
クラブはドイツ家庭犬協会(VDH)の科学審議会を交えて何度も議論を重ね、そして遺伝疾患の伝搬を防ぐため、まずは先だって2004年に繁殖犬の交配制限や次世代犬の検査判定などを含む新しい繁殖衛生の規定を打ち出したのだった。
若いバーニーズ・マウンテン・ドッグの死因の大部分であるガンは、悪性組織球症(Malignant histiocytosis)といわれるものである。通常良性の皮膚組織球腫ならばボクサーやフラットコーテッド・レトリーバーなどにも多くみられ、悪性腫瘍に発展することもややありがちだが、バーニーズ・マウンテン・ドッグでは(付け加えるならばロットワイラーも同じく)それが高い確率(約20%)で悪性の組織球肉腫へと豹変し、多くの場合は1年以内に転移が起こり、犬が多大な苦痛を負うこととなる。もちろん完治はできない。
幸いなことに、複数の血統分析調査の結果、それが複合遺伝性の疾患であることが分かり、しかし遺伝性であることが分かった以上、犬種の将来のためにクラブとして何か対策を打たなければならない。しかもドイツでは、動物保護法に虐待繁殖の禁止も掲げられている。現在クラブではこの遺伝疾患をさらに深く調査するため、フランスやオランダ、アメリカなどの大学に協力を得て血液サンプルを集め、データを取っているところだ。
この繁殖衛生の目的は(当初の概念と同じく)、個々の犬の健全性を守ることにある。犬がヒトの手によって生まれてくる動物である以上、生み出す側であるヒトの責任として、そして生まれてきた犬が他のヒトの手に渡り、生かされていくことを踏まえた上で、生み出すヒトつまりブリーダーは犬とその飼い主が幸せな暮らしを送れるように、消費者保護の視点からも犬の健全性を確保しなければならない。これは概念の中心にある疾患の種類が変わっても守られるべきことであり、少なくともそれが守れなければ「ブリーダー」と呼ばれることはなく、なによりも「あの犬種は病気になりやすい」といわれてうれしいファンシャーはいないだろうし、犬が病気になって喜ぶ飼い主はいない。犬がヒトに飼われて生きる動物である限り、「健康で長生き」は絶対的な価値を持っているといっていい。
ブリーダーにとって「繁殖衛生」はその名に関わる重要な課題であり、そのため先進諸国の犬種クラブに属するブリーダー達は、協力し合いながら情報収集と対策の実践を行っている。日本でも繁殖衛生について、犬種の将来を真面目に考えるいくらかのファンシャーブリーダーは、当然意識している。しかし、繁殖屋や自家繁殖をペットショップなどに卸す人達、そしてそれらの犬を購入する人達にはまだまだ無縁の言葉であり、このあたりが日本での大きな問題であることは、もはや特筆するまでもなく周知されつつあると思いたい。
(本記事はdog actuallyにて2013年5月14日に初出したものを一部修正して公開しています)
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