犬学者とディンゴが担う犬の行動学の将来

文:アルシャー京子

プーヴォ(Puwo、Pudelwolf:プードルウルフの略)。プードルとオオカミのハイブリッド(雑種F1)、けっしてデザイナードッグの類ではない。(エリック・ツィーメン著『Der Hund』より)

プードルとオオカミの交雑を用いてイヌとオオカミの行動の進化について比較調査をしたエリック・ツィーメン(Erik Zimen)という動物学者がいた。

スウェーデン生まれのツィーメンはチューリッヒで動物学を学び、研究のために当時の妻と一緒に数年間オオカミの群れとプードルのグループの中で生活をし、このプーヴォの研究成果をもって1970年に博士号を取得した。

彼の研究をちょっと紹介しよう。

ツィーメンはキール大学で家畜の権威であるヘレ教授の指導の下、プードルのオスとオオカミのメスとの交配を行った。

この交配により生まれてきた雑種第1代目(F1)はどれも統一的な姿で黒毛に立ち耳、行動はオオカミと同じく人見知りする怖がりだった。さらにプーヴォ同士を交配させ生まれてきた雑種第2代目(F2)では面白いことにみな姿がバラバラ、立ち耳・長毛のシェパードタイプや垂れ耳・短毛のハウンドタイプ、テリア似、スピッツ似などなど、メンデルの法則を再確認するかのように多彩な雑種の姿が見られたのだった。

プーヴォF2の例。(エリック・ツィーメン著『Der Hund』より)

ツィーメンはこの現象を見て「何世代も純血を保ってブリードしてきた犬種の多彩性をオオカミは遺伝的潜在として持ち合わせている」と考察している。

肝心の行動調査に関しては「犬の行動はオオカミ特有の行動性を失った残り物ではない」、つまりオオカミが家畜化の道を歩んだとき、新しい行動性を進化させる起点となったという仮説を立てた。家畜化されたオオカミは現在のオオカミよりもヒトへの恐怖心を抱かず、しかし現在のイエイヌよりも慎重だったと予測したのだった。

今では私たちが見ることができるのは野生のオオカミと従順なイエイヌという、極端に進化・発展した両者の姿である。ヒトに対する信頼性あるいは恐怖心(という表裏一体)の行動性質はオオカミが今日まで生き残るための前提条件ではなく、イエイヌがイエイヌとして生き残るための前提条件でもあった
(エリック・ツィーメン著『Der Hund』より)

ちなみに調査の対象とされたプーヴォ(F1とF2)は「一般家庭で飼うには問題が多すぎ向いていない」とツィーメンは評価したことを付け加えておこう。

プーヴォの研究がひと段落付いた後、30歳のときにコンラート・ローレンツ博士の働くマックス・プランク研究所スタッフとして7年間、オオカミの行動観察に理想的な環境に身を置いた。

ツィーメンは犬学を中心としたドッグ・トレーナー養成所「CANIS Zentrum für Kynologie」を2002年に設立、翌年5月に脳腫瘍のため他界した。彼の死後、未亡人モナは大自然に囲まれた小さな自宅を開放し、ツィーメン念願の「子供達のための自然とのミーティングポイント」を作った。

[Photo by PartnerHund.com]

広い敷地の中で年間を通して戸外で飼われ、自然行動が観察されているディンゴたち。給餌と救急時以外人の手はかけられていない。

ディンゴの話

1969年にローレンツやトルムラー他数人の動物学者が設立した「家畜研究協会(Gesellschaft für Haustierforschung (GfH) e.V.)」の「トルムラー・ステーション」では現在イヌの自然行動の観察モデルとしてオオカミよりもイエイヌで野性に生きるディンゴ(学名:Canis lupus dingo)が用いられている。

この施設ではディンゴのほかアラブ系の野性犬とトルコ・イラン系の野犬をも観察対象とし、犬の自然行動についての研究が進められているのだ。

一般的にはオーストラリアのものと思われているディンゴ、遺伝子的にはタイの野良犬(人の近くに住む)がこれに含まれることが知られている。ニューギニア・ディンゴやカロライナ・ドッグなど外見がディンゴによく似ている野性のイヌたちが多くいるが、まだこれらがどれだけ近縁であるか確認されておらず、そしてイエイヌであるとはいえ国際畜犬協会(FCI)ではディンゴは犬種として認められていない現状だ。

ディンゴはイエイヌの先祖だとか、オオカミとイエイヌの中間種だとかいろいろ言われているが、「ディンゴは野性ながら人の住む地域に入り込んできてその環境条件に適応したイエイヌであり、私たちの傍に暮らす愛犬達よりも原始を残しているわけではない」とディンゴを用いたイエイヌの行動研究指導に当たるフェダーセン・ペーターセン博士はいう(フェダーセン・ペーターセン博士もまたツィーメンと同じ師のヘレの元で犬の行動学を築いてきた大事な犬学者のひとりだ)。

愛犬を知るにはまずその自然から。どの犬にも共通に見られる行動を犬の自然行動として認め、守ってゆくことが今後の私達の課題でもある。ただそれに興味を持つかどうかは社会によって違ってくるだろうが。

【参考文献・サイト】
・『Der Hund』 Erik Zimen著(1992年)
Canids: Foxes, Wolves, Jackals and Dogs. Status Survey and Conservation Action Plan.

(本記事はdog actuallyにて2010年1月8日に初出したものをそのまま公開しています)