遺伝子変異だけじゃない、多様な犬の進化に影響するエピジェネティクス

文:尾形聡子


[photo by Nick Bragg]

遺伝子の変異が犬の多様性(見た目や行動特性など)を作り出したり、病気の原因になったりすることには、これまで何度も犬曰くの記事の中で触れてきました。とくに、毛色の違いなど、いわゆるメンデルの法則にしたがうような遺伝形質は環境からの影響を受けず、完全に生まれつきの形質です。実はそのような形質は限られており、多くの形質や病気そして性格は遺伝と環境の両方からの影響を受けています。

遺伝子に変異が起こり、作られるタンパク質が変化すれば、タンパク質の働きが変化して出てくる形質が変わってくるというのはなんとなく想像しやすいのではないかと思います。しかしタンパク質が変化しなくとも(ゲノムそのものに変異が起こらなくても)そのタンパク質がいつ、どこで、どのくらい作られるかの違いによっても、体が受ける影響、そして形質の変化が起きてきます。

遺伝子の情報をもとにタンパク質が作られる過程のことを遺伝子発現といいますが、その遺伝子発現の調整をしているメカニズムである「エピジェネティクス」が変化するケースです。エピジェネティクスの状態が変化すると、体にさまざまな影響が出てくることがこれまでの研究により明らかになっています。

エピジェネティクスは遺伝と環境をつなぐ役割を担っているということを以前「犬の行動に影響する、遺伝子環境相互作用」にて触れましたが、ここで少し詳しく説明したいと思います。

https://inuiwaku.net/?p=27358

エピジェネティクスとは

エピジェネティクスとは「DNA塩基配列の変化を伴わない細胞分裂後も継承される遺伝子発現あるいは細胞表現型の変化を研究する学問領域(wikiより)」のことで、さまざまな生物の生命現象に関わっているメカニズムです。主に「DNAのメチル化」と「ヒストンのアセチル化などの装飾」のふたつによって制御され、それぞれが遺伝子発現の抑制と促進の役目を担っています。簡単にいえば、遺伝子がタンパク質を作るかどうかのスイッチをONにしたりOFFにしたりする働きをしています。


[image from wikipedia:Mariuswalter] DNAメチル化はDNA上のシトシン(C)という塩基に
メチル基修飾が付加される化学反応。DNAがメチル化されるとそれが目印となって遺伝子発現がOFFになる。

たとえば生物は、最初は一つの細胞(受精卵)から細胞分裂を幾度となく繰り返し、それぞれに機能を持った臓器に分かれていき、体全体を作り上げていきます。その過程において、いつ、どこで、どのくらいのタンパク質を作るかがきちんとコントロールされていなければ、正常に発生の過程をたどることはできません。有名なところではクローン動物やiPS細胞の作製にエピジェネティクスが大きく関わっていることが知られています。

エピジェネティクスは病気にも関係があり、身近な例ではがんがそのひとつです。個体を維持していくには、ある組織はずっとその組織であり続ける必要があります。肝臓は肝臓の細胞を作り続けなくてはなりませんし、皮膚は皮膚であり続けなくてはなりません。しかし加齢などにより、たとえば、がんの発生を抑制する機能を持つタンパク質がエピジェネティックな装飾を受けて正常に作られなくなると、組織特異的にがん化が起こると考えられています。ほかにもゲノムインプリンティングという、父方あるいは母方のいずれから受け継いだ遺伝子であるかの目印としてもエピジェネティクス機構が関わっています。

遺伝子変異の蓄積は進化の大きな原動力となりますが、それだけでなく、エピジェネティックな要因も進化に影響していることが近年の研究からわかり始めています。遺伝子の変異は不可逆的な事象のため、自然繁殖による進化にはとても長い時間を要するものですが、エピジェネティックな変化は可逆的でもあり、環境からの影響を受けて短期間で適応できる(進化する)という特性があるのです。

科学技術の飛躍的な進歩によりゲノムの比較研究が容易になった昨今、オオカミと犬のDNAレベルでの違いはゲノム全体の0.1%にも満たないことがわかっています。もちろんそのわずかな違いが形質の違いとして出てきているのですが、それ以外、すなわちエピジェネティックな要因も犬の比較的短期間での進化を促進してきた可能性があると考えられています。

実際、犬とオオカミはいくつかの行動に関連する遺伝子について、ゲノム配列こそ違わなくとも脳内での発現パターンが違い、その遺伝子のプロモーター領域(遺伝子発現を調節するゲノム上の特定領域)にあるDNAメチル化の状態が異なることなどが示されています。つまり、遺伝子変異は起きていなくても、DNAメチル化による遺伝子発現の制御のされ方が違うため、作られるタンパク質の量の変化が起きている、ということなのです。

さらには、犬種間でも遺伝子発現の違いが示されている遺伝子があります。そのひとつがモノアミンオキシダーゼA(MAOA)という遺伝子で、人では怒りっぽさに関連する遺伝子といわれています。これについて詳しくは以下のブログをご覧いただければと思います。

https://mag.anicom-sompo.co.jp/9953

ちょっと長くなりましたが、このような背景から、犬とオオカミの種間の違い、さらには犬種間でのDNAメチル化状態の違いを包括的に調べるべく、スウェーデンのリンシェーピング大学の研究者らは両者の脳サンプルを用いて研究を行い、結果を『PLOS ONE』に発表しました。

オオカミと犬、そして犬種間でのエピジェネティックな違いは?

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