「おはよう」の再会

文と写真:尾形聡子

タロウとハナと暮らしてきてずっと感じているのは、「朝は再会のとき」ということ。再会という言葉の本来の意味のごとく、長く離れ離れになっていた者同士が出会う瞬間が毎朝おとずれる。一緒のベッドで寝ていようが、同じ部屋にいようが関係ない。朝を迎えるたびに犬たちと私は再会している。

そう思うようになったのは、私が家を留守にして戻ってきたときと同じ行動を朝もすることに気づいたからだ。犬たちは、私が帰ってくると床に落ちているおもちゃを必ず口にくわえて歓迎しに来てくれる。おもちゃがすぐに見つけられないと、一度はあいさつに来るものの、すぐに踵を返しておもちゃを探しに行ってしまう。犬たちにとって「おかえりなさい」の行動には口に何かをくわえていることが必須なのだ。教えたわけでもないのに2頭そろってこの行動をとるというのは、遺伝的なものなのだと感じている。

朝も同じく何かをくわえて「おはよう」とあいさつしに来るのだが、面白いことに犬たちは、私が声にだして「おはよう」というまでは近寄ってこようとしない。なので、たとえば体調が悪かったり、二日酔いで起き上がれないような日は、「おはよう」のあいさつが昼になろうともただひたすら待っている。けれどひとたび「おはよう」と声をかければ、「待ってました!やっと再会できたね!!」といわんばかりに喜んであいさつしに来る。

このようなことから、私が家に帰ってきて玄関のドアを開けるのと、朝「おはよう」と声をかけるのは犬にとって同じスイッチになっていると考えるようになった。「再会」するスイッチだ。私の体がそこにあろうがなかろうが、犬たちにとって私とコミュニケーションが取れるか取れないか、ということが重要な基準になっているのではないかと。

だからなのだろう。タロウとハナは正真正銘の分離不安だった。とくにハナは相当酷かった。もともとの性格がしぶといというか、諦めが悪いところがあるので、私だけが一人で出かけてしまうのをどうしても納得できなかっただろうこともその理由のひとつだと考えている。若いときの犬の体力とは想像以上にすごいもので、出かける前にどんなに運動をしても「それとこれとは別です」といわんばかりに留守中吠え続けていたこともしばしば。分離不安を解消するトレーニングも山ほどやってきたけれど、それが功を奏したと感じられることはほとんどなかった。

幸い、分離不安の傾向は歳をとって和らいできている。日中寝る時間が増えているし、吠え続ける体力もないのだろう。とはいえ分離不安気質であることには変わりないと感じる。もともと持っている気質というものはなかなか変えることができないものだ。分離不安ではあるものの、「散歩に連れていって!」「早くご飯食べたい!」というようないわゆる要求吠えはまったくない2頭がもっとも嫌だと感じているのは、私とコミュニケーションを取れなくなることなのではないかと思うに至ったのだ。

そして、こんなことをつらつらと考えていたら、私自身が毎朝犬たちと「再会」できることにとても幸せを感じていて、それが朝の散歩へのモチベーションにもなっていることにはたと気づいたのだった。もしかしたら犬たちは、私が気づくよりもずっと前からそんな私の心の動きを察知していたのかもしれない。やっぱり犬は人が想像するよりもずっと、人の感情に敏感だと思う。