犬は沈黙の証人になりうるか?最新の法科学研究が示すふれあいの痕跡

文:尾形聡子


[photo by bnenin]

最近、犬に対する新たな科学の視点がくわわりました。犬がにおいを探すのではなく「物理的な痕跡そのものに何が残るのか」を綿密に調べるというアプローチです。犬は“においを探す存在”であるだけでなく、“接触の痕跡を宿す存在”でもある可能性が浮かび上がってきました。

たとえば私たちが犬をなでたり抱いたりすると、その瞬間にその“痕跡”が犬の体に付着する可能性があります。そしてその痕跡は、人と犬の間で行き来することがあるというのです。それがわかるようになったのは、近年のDNA解析技術の飛躍的な進歩なくしては語れません。従来では対応できなかった微量のDNAも、最新の手法で検出・解析できるようになりました。

技術的な背景もあり、犬が法科学の世界で注目されるようになってきています。法科学という言葉は聞きなれないかもしれませんが、科学的知識や技術を犯罪捜査や裁判といった法律上の問題の解決に応用する分野の総称です。死因を究明する法医学、薬物や毒物を分析する法化学、DNA鑑定を行う法生物学などがあり、日本では主に科捜研(科学捜査研究所)が実務を担っています。近年ではデジタル機器の解析を行うデジタル・フォレンジックも発展しています。

今回紹介する2本の論文は、オーストラリアのフリンダース大学を中心とした研究グループによるもので、いずれも同グループによる一連の法科学的アプローチに基づく研究です。研究者らは、短時間〜中時間の接触実験を通じて、人と犬のあいだの “痕跡の履歴”がどのように残るのかを明らかにしました。その結果は、これまで私たちが無意識に行ってきた犬とのふれあいを、まったく別の角度から見るきっかけになるかもしれません。

沈黙の証人 ― 犬とDNAの関係を法科学はどう見るか

「沈黙の証人」という言葉は、しばしば物証を指すときに使われます。指紋や足跡、繊維片や血痕のように、言葉を発することはなくても、そこに確かに残された痕跡は、何が起きたのかを推測する重要な手がかりになります。DNAもまた、その代表的な証拠のひとつです。皮膚から自然にはがれ落ちる細胞、いわゆる「タッチDNA」は、物に触れただけで付着することがあります。近年の研究では、握手や短時間の接触でも、微量ながらDNAが移動することが示されています。

では、もしその「触れられる対象」が犬だったらどうでしょうか。

犬の被毛や皮膚は、日常的に多くの人と接触しています。飼い主はもちろん、家族や来客、公園で声をかけてくれた人、動物病院のスタッフなど、犬の体はさまざまな接触の機会にさらされています。法科学の視点から見ると、犬の体は「人のDNAが蓄積される可能性のある場所」でもあります。

実際、近年の研究では、犬や猫の体表から飼い主のDNAが検出されること、そして短時間の接触後でも他者のDNAが移動しうることが報告されています。つまり犬は、単なる接触の対象ではなく、場合によってはDNAを一時的に保持し、さらに別の場所へ運ぶ媒介者にもなりうるのです。

もちろん、DNAが検出されたからといって、それだけで起こったことのすべてがわかるわけではありません。法科学では、「DNAが存在すること」と「どのような行為があったか」は慎重に区別されます。それでも、犬の体が接触の履歴を物理的に宿す可能性があるという事実は、これまであまり注目されてきませんでした。そこに、今回の研究の出発点があります。


[photo by sandra]

5分間のふれあいが残すもの ― 短時間接触の実験

2025年の研究では、5頭の家庭犬と、それぞれ面識のない5人の訪問者がペアになりました。訪問者は犬の自宅の玄関先で、5分間だけ自由に犬をなでたり遊んだりします。実験はごく日常にありふれた場面を再現するものでした。その後、犬の体や訪問者が触れた車や家の中の物、さらには訪問者の手からもDNAを採取して分析しました。

結果は思いのほか明確でした。まず、訪問者のDNAは、犬の体から約半数のケースで検出されました。しかも、採取は接触直後ではなく、およそ1時間後です。つまり、短時間のふれあいでも、DNAはすぐに消えるわけではないということが示されました。

一方で、DNAの移動は一方向ではありませんでした。犬の体に日常的に存在していた飼い主のDNAが、犬を介して訪問者の手や車へ移動するケースも確認されました。

さらに興味深いのは、その後の動きです。訪問者が犬をなでたあとに触れた車のハンドルやドアノブなどからも、犬の飼い主のDNAが検出されることがありました。つまり、DNAは「飼い主→犬→訪問者→車や家の中の物」というように、段階的に移動しうることが示されたのです。

もちろん、すべてのケースで必ず移動するわけではなく、量も微量で、検出の有無にはばらつきがありました。それでも、「たった5分の接触」で、しかも特別な状況ではない日常的なふれあいで、DNAが双方向に動く可能性があることは注目に値します。そして、犬は触れられる存在であるだけでなく、接触の履歴を一時的に保持し、それを別の場所へ移すことがある可能性を、この研究は実験的に明らかにしました。

抱き上げられた瞬間に広がる痕跡 ― 模擬“連れ去り”実験

続いて紹介するのは、同じ研究グループが2026年に発表したもうひとつの実験です。こちらは、より踏み込んだ状況を想定しています。

設定は、いわば「犬を抱えて車に乗せる」という場面です。研究では、5頭の犬を、それぞれ面識のない人物が抱き上げ、車の後部座席に乗せました。犬は20分間車内で過ごし、その後自宅に戻されます。そして、犬の体、車内の座席、抱き上げた人物の衣服などからDNAを採取し、どのような移動が起きたのかを調べました。

実験はあくまで模擬的なものですが、法科学の観点からは現実の事例を想定した設計です。短時間の接触だけでなく、「抱える」「移動させる」という、より密接な接触が加わります。

結果は興味深いものでした。まず、犬の体からは約85%という高い割合で飼い主のDNAが検出されました。日常生活の中で蓄積されていたDNAが、安定して残っていることが確認されたのです。さらに、犬を介して飼い主のDNAが車内から検出されるケースがありました。また、抱き上げた人物のDNAが犬から車内へ移動した可能性を示す結果も得られました。その車はもちろん飼い主のものではありません。また、抱き上げた人も後部座席には直接触れていませんでした。それにもかかわらず、DNAが検出されたのです。

もちろん、こちらの実験でもすべてのケースで同じ結果になるわけではありませんでした。DNAの量や検出状況には個体差や接触状況による違いがあります。それでも、この研究は、犬を抱き、車に乗せ、20分間その場にいるというごく単純な行為の中で、DNAが段階的に移動しうること、そして犬が単なる受動的な「付着の場」ではなく、接触の履歴を保持しながら周囲へ痕跡を広げる存在になりうることを明らかにしました。


[photo by Masarik]

DNAはどこまで読めるのか ― 科学とその限界

ここまでの研究からわかるのは、犬の体に人のDNAが残りうること、そしてそれが別の場所へ移動しうるという事実です。

しかし、ここでひとつ重要な点があります。DNAが検出されたからといって、それだけで何が起きたのかを断定できるわけではないということです。

法科学では、「誰のDNAか」という“同一性”の問題と、「どのような行為によって付着したのか」という“活動レベル”の問題は、明確に区別されます。たとえば、ある場所から特定の人物のDNAが見つかったとしても、それが直接触れた結果なのか、あるいは別の物や人を介して間接的に移動したのかは、簡単には判断できません。実際、DNAは想像以上に移動しやすいものです。握手をしただけでも、相手のDNAが第三者へ移ることがあります。今回紹介した研究でも、犬を介して段階的にDNAが広がる可能性が示されました。

では、その「直接」と「間接」を区別することはできないのでしょうか。

ごく最近では、この点を明らかにしようとする研究も進められています。DNAの量や混合の状態、付着している場所の状況などを総合的に評価し、どのような経路で移動した可能性が高いかを検討する試みです。単にDNAが「ある・ない」という証拠ではなく、その背景にある接触のあり方もより精密に読み解こうとする研究で、「活動レベル評価」と呼ばれており、法科学のなかでも急速に発展している分野のひとつです。

それでもなお、科学捜査においてDNAは万能ではありません。だからこそ、犬の体からDNAが検出される可能性があるという今回の知見も、慎重に解釈される必要があります。犬は“沈黙の証人”になりうるかもしれません。しかしその証言をどう読み解くかは、科学の精度と私たちの理解に委ねられています。

今回紹介した研究は、犬が事件を解決する存在であると断言するものではありません。それでも、私たちが日々交わしている何気ないふれあいが、DNAという目に見えないレベルでも確かな痕跡を残しているという事実は、犬という存在を少しだけ違う角度から見せてくれるかもしれません。

【参考文献】

Paws for a moment: Investigation of bi-directional transfer of human DNA during a short human-dog interaction and subsequent indirect transfers. Science & Justice. 65(5):101312. 2025

Investigation of human DNA transfer during mock dog- napping. Forensic Science International. 378:112724. 2026