愛護、ウェルフェア、飼い主マナーにエチケット、白黒つけられぬこの曖昧なもの

文:犬曰く編集部

【Photo by Frank-3

犬曰く座談会スペシャルをどうぞ!

犬曰く編集部の我々はある本に出会った。アメリカのウェスタン・カロライナ大学心理学教授、ハロルド・ハーツォグ著、題して

「ぼくらはそれでも肉を食う -人と動物の奇妙な関係-」

だ。ハーツォグは著書の中で、人というのは動物に対して必ずしも普遍性や一貫性のある関係を保てているとは限らない、と語っている。ちなみに先日公開した記事「国民一人当たりのGDPが高い国ほど犬を飼わない」で紹介したとても興味深い研究もハーツォグのものだ。

https://inuiwaku.net/?p=23517

犬の情報を扱っているメディアとして我々はよく極論に直面することがある。「殺処分ゼロ!」や「飼い犬の絶対不妊去勢!」といったような動物愛護や福祉をめぐるキャンペーがよい例だ。このような主張は、ときに人の考え方を二分化させやすくメディアとしては戸惑うことすらある。だからこそ、ハーツォグの考え方に興味を覚えたのだ。

ペットを可愛がる人の中には、意外にもセラピーに使われる動物のウェルフェアにはあまり注意を向けなかったり、ペットの殺処分に反対する人でも、家畜のウェルフェアには無関心であったりする。極論を主張する人、あるいはそうではない人も、人というのは思ったほど一貫した態度を持つことができない、それが彼の指摘しているところでもある。

この本をめぐって編集部員同士で意見を出しあってみた。日本における動物をとりまく状況、ウェルフェア、マナーやエチケット、そして飼い主の矛盾した気持ちなどにも話は及んだ。そのときの様子をみなさんとここにシェアしたい。参加したのは、犬曰く編集部東京下町在住のおがちゃん、こと尾形とスウェーデン在住の藤田、そして犬曰くゲストライターとしてお馴染み、オーストラリア在住のいがちゃん、こと五十嵐である。

世界を2分化して考えてスッキリできることってほとんどない

尾形聡子(以下尾形)

あのような心理学者の本もあるもので、1つの事象に対してすごく冷静に多方面から取材・分析をしている内容でした。ハーツォグは何かについて結論を出すことを目的としてあの本を書いたわけではなくて、読者である我々に考えるきっかけを色々提供しようとしてくれているのだと思いましたね。

五十嵐廣幸(以下五十嵐)

そうですね。本の最後の方で書かれていた「動物への運動家が孤立化しやすい」なんていうのも、私はすごく納得しました。

尾形

すごい客観性の持ち主だなあとも感じました。さすがは研究者。ややもすれば専門的で理解不能な内容を、心理学分野の知識がない人にも読みやすく、理解しやすく書いているところがまたすごいなと。闘鶏についての項ではさまざまな例が紹介されていましたが、どの立場にたつか、どの視点からみるかによって、同じ闘鶏でもまったく違うものになってくるものなのですよね。

五十嵐

闘鶏に使われる軍鶏とチキンナゲットになるブロイラーどちらが幸せか、という問いはとても考えさせられました。

藤田りか子(以下藤田)

養鶏場の鶏やブロイラーは、ウェルフェアもまっとうされず、自由に土の上を歩いたり、お日様のもとで草をついばむという鶏としての生き方が許されていない。でもこちらは合法に飼われている。一方で闘鶏は戦いで殺される運命にある。人道的ではないから、アメリカで違法となっている。それについてハーツォグは、ある意味ブロイラーの鶏よりも、闘鶏の鶏たちの方が少なくとも試合で負けるまでの間は、自由が与えられ、よい食べ物を与えられ、アスリートとして十分な運動も与えられていると言っていましたね。

五十嵐

これを言うのなら、売れ残りとしてペットショップにいる犬と、ほとんど散歩に行くことがない飼い犬、どっちが幸せかな、ということもふと考えてしまいました。

たとえばペットショップにいる売れ残りの犬は、お客さんだけでなく店員もすくなからず相手をしてくれるだろう。疲れていたら、店先から裏手に移動させて休ませるかもしれない。商品として価値がなくならないように、病気になれば獣医の診察を受けさせるかもしれない。もしかしたら大きくなった売れ残りの犬に限っては散歩に連れて行くなんてこともしている店員もいるんじゃないか?そんなことさえも思ったんです。

飼い主がいる犬でも、実際のところ散歩に連れて行ってもらえないことだって多い。そして

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