文と写真:尾形聡子
3回にわたって、麻布大学獣医学部動物応用科学科伴侶動物学研究室教授の菊水健史先生による講演『ヒトとの共生を可能とするイヌの特殊な進化』をお伝えしてきました。今回は、日本ペットサミット(J-PETS)会長で、東京大学獣医外科学教室教授の西村亮平先生の進行による質疑応答の時間の様子を紹介したいと思います。講演内容だけにとどまらず、さまざまな質問が菊水先生へと寄せられました。
-実験を行っていて、大型犬と小型犬との違いが見られることはありますか?
菊水先生:違う行動はたくさんあります。たとえば大型犬は指差しや人の視線に敏感ですが、小型犬は指差しの課題があまり得意ではありません。また、犬同士が攻撃と服従の関係にあるとき、小型犬が示す行動のレパートリーは大型犬の5分の1ほどしかありません。表現能力も理解能力も小型犬は低めのため、大型犬が怒っているのを解らないことがあり、事故につながることもあります。けれども小型犬は小さくなった分、人に助けてもらうための行動は上手になっているように感じます。
西村先生:診療を通じても感じるのですが、小型犬が作り出されていく過程でなにか大事なものが失われてきているのではないかと感じることがあります。
菊水先生:その通りですね。とにかく社会行動の発現パターンがシンプルになっているのは明らかです。大型犬は複雑なことができるのですが、それができなくなっています。この違いは遺伝的にも示されていることです。
-犬と絆を形成するためには、どうすればいいのでしょうか?
菊水先生:実習では人馴れしていない、人が怖い犬たちを2か月くらいかけて解きほぐしていくのですが、嫌なことはしない、かかわりすぎないというのが大事かと感じます。皆さんもうお分かりかと思いますが、犬は人のほうからアクションを起こすとだいたい逃げますよね。自分の懐に犬を入れるような付き合い方、犬が人を頼るように引き寄せることができ、いい具合の距離感が作れる人は絆の形成がうまく行くのではないかと思います。また、犬には生活の安定性がとても大事ですので、散歩に行ったり食餌を与えたりという基本的な要素を繰り返して犬の緊張感を取り除き、人とのコミュニケーションの中では、強制的にではなく人為的にリラックスさせる瞬間を入れると効果があると思います。
-おやつを使った絆づくりについてはどう思われますか?
菊水先生:個人的には、視線や触れ合い、散歩といったことで犬との関係性を作りたいと思っていますので、あまりおやつは使いません。神経科学では有名な話なのですが、慣習化する(ハビタット)神経回路と認知的に意思決定する神経回路は脳の中でせめぎ合っていることが分かっています。ハビタットとは薬物中毒みたいなもので、考えずに同じことを繰り返すことにより形成される脳回路です。認知的な意思決定とは、今どうすべきだと自分で状況判断をして行動を選択する脳回路です。犬にとっておやつは強い報酬なので、ハビタットを強くし、自らの状況判断能力を鈍らせると思うのです。入り口としておやつを使うのはいいと思うのですが、ずっと繰り返すとハビタットのほうが強くなってしまうため、使いすぎると悪影響がでてきてしまうかもしれません。おやつを使った環境ではうまく振る舞うことができても、まったく違う環境に置かれると自らの意思決定ができずに困ってしまうと、いった状況になってしまうことが考えられるからです。
-犬が嫌い、苦手な人に対してどのように犬の良さを伝えていったらいいと思われますか?
菊水先生:とにかく経験しないことには分からないと思います。ではどう経験させるか?ということになるのですが、大人になってから変えるのは難しいので、子どもの時に犬の良さに触れるチャンスをたくさん与えるのが一番だと思います。そのためにも、公園に行けば犬がいる、通学途中に犬がいるといったように、日常生活の中で普通に犬と触れ合える環境にあることが大切だと思います。
-犬嫌いの遺伝子のようなものがあるのでしょうか?
菊水先生:小さいときから犬と生活をしていれば、まず犬を嫌いになることはないと思いますので、犬嫌いの遺伝子というものはないと思います。犬との生活や犬と触れ合う経験をしていないことによる嫌悪になるのかと。犬は人と暮らすことで遺伝子が変化してきていますが、人も遺伝子が変化してきたと考えています。
人と大型霊長類を比較すると、人はネオテニー(幼形成熟:容姿や行動が幼いままで性成熟をすること)がとても進んでいるのは人類進化学的にも認められていることです。また、人間はセルフドメスティケーション(自己家畜化)したと言われているのですが、私はそこに農耕と犬の存在があったと思っています。人は農耕の発達によって食料が確保できるようになったこと、そして犬がいることで天敵と対決する必要がなくなったり、狩猟も上手になり、厳しい生存競争から離れていくことになったのだと思うのです。ですので、犬嫌いの方でも犬によってネオテニーにされた遺伝子は持っていると思いますよ。
-犬はなぜ違う生物の模倣もできるのでしょうか?
菊水先生:犬は間口がユルいからなだと思います。まあいいや、と思える社会的寛容性がとても広いんです。たとえば犬と人の形態的な違いは明瞭ですが、だいたいこれが手かな、これが口かなといった感じで、たとえずれていても自分の身体と人の身体を重ね合わせています。なので、犬は人のことを模倣できるのだと思います。また、犬がほかの動物の子どもを世話する映像などよく見かけますが、まさにそれも犬の間口の広さを表しているものです。
-ポジティブ・ループは母子の間だけなのでしょうか。父子の間でも見られるのでしょうか?
菊水先生:人の場合、父親と子どもの間でもオキシトシンは分泌されていること、母子だけでなく父子の間でもポジティブ・ループが回ることが確認されています。父親の養育行動を邪魔するのはテストステロンで、これはマウスを使った実験などでも示されています。テストステロンが高いときにはオキシトシンの産生量がすごく減りますので、そうなると養育行動が出にくくなるのです。
-人においてオキシトシンはいい影響ばかりではないと聞くのですが、犬でもマイナスに影響するようなことはありますか?
菊水先生:犬でオキシトシンが悪影響を及ぼすといったデータは今の段階ではありません。結局のところオキシトシンは、幸せホルモンでも絆ホルモンでもなく、家族を育てるホルモンでしかありません。家族をうまく育てるための親子の絆であって、オスメスのつながりなんです。目的はそれだけなので、他者の侵入に対して攻撃するのもオキシトシンのためです。オキシトシンの効果は同胞を守り、異物を殺すという、いわば、戦争ホルモンとも言えます。
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質疑応答のすべては紹介できませんでしたが、バラエティに富んだ質問が多く寄せられ、講義内容とは一味違ったところでとても勉強になった時間でした。これからますます犬の認知研究が進められ、様々なことが科学的に分かってくることでしょう。そういった研究結果を、人と犬が一緒によりよく暮らしていくために積極的に取り入れ活かしていける風潮が作られていくことを期待したいと思います。それにしても改めて、数万年前に人と犬が出会っていてくれた恩恵を享受できている今の時代に生きていることに、幸せを感じるものです。
(本記事はdog actuallyにて2016年12月13日に初出したものを一部修正して公開しています)
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