文と写真:藤田りか子

[Photo by Chewy]
とあるスウェーデンの大手ペットショップ会社の調査によると、ペットオーナーの83%が、現在の経済状況にもかかわらず、ペットへの支出を減らす予定はないと回答している。
「ペットを飼うことが、もはや当然にできることではなくなりつつあります。それでも多くの人が、動物が快適に過ごせるようにできる限りのことをしています。この結果は、人と動物のあいだの結びつきがいかに強いかを示しています。財布の中身が心もとなくても、です」
と同社の広報担当の人は語った。
飼い主が自分のニーズよりも動物のニーズを優先するケースもあるという。回答者の3分の1がその事実を認めているそうだ。この傾向はとくに女性や若年層で顕著で、18〜34歳の女性の過半数が、「自分自身の関心事よりも動物の健康と幸福を優先する」と答えている。
おそらく日本でも状況はそんなに変わらないのではないか。ソーシャルメディアを見ていても「愛犬のために、自分を犠牲にして犬のためにつくしています!」というような投稿を目にする。ただし頑張りすぎて、育児ならず育犬ノイローゼになって自分をすり減らしている人もいる。そうした投稿には
「自分が幸せにならずにして、犬は幸せにはなれませんよ。まずは自分をケアするように」
なんてアドバイスが寄せられていたりする。
ふーむ、なるほど。私は犬へのケアで「ノイローゼ」にも「それ気味」にもなったことがない。そして、「自己犠牲」ともあまり考えたことがない。悩みはするが、そんなに不幸せに思ったこともない。でもペットショップ会社がいう通り犬に時間、労力、お金を費やしているのは確かだ。おそらく自分の「愛犬貢献観」は少し異なるのかもしれない。なので、それについてちょいと述べてみよう。もちろん「この考え方が正しい」などというのが意図ではなく、飼い主の心理としてこんな捉え方もある、の一例として読んでもらえれば…!
前回の記事でも述べたが、今はシニアラッコがいるために、彼のケアを中心に一日のスケジュールが回っている。いっとき何を食べさせても、夜になると必ず体調を崩していたものだ。咳がひどくなり、吐こうとする発作が起きる。ただし朝になるとほぼ回復し散歩に出せば機嫌よく歩く。そしてどんなに夜のたうちまわっても、うんちは毎回しっかりとしたものが出る。獣医につれていって検査しても異常が見つからず、「様子を見るしかないですね」と言われて帰宅する、そんなことが何度も続いた。夜にまた発作が起こるんじゃないか、とびくつくことが多くなり、神経をすり減らした。
BARFが強すぎるのかもしれない、と、肉をチキンにしぼった。赤肉系統を与えると、どうも「吐き」が出る因果関係がある気がした(確証はないが、食べさせるとたまにえずく)。もっとも、体調を崩す以前は、赤身の鹿肉の塊をペロリと平らげていたのだが……。
加熱して与えたり、消化によいと言われているドライフードを少し混ぜたりと、ありとあらゆる実験をしてみた。何がラッコを気持ち悪くさせるのかさっぱりわからず、念には念をと、チキンもBARF用ではなく人用を購入するようになった。時には冷凍庫の「人が食べる分」から拝借してラッコに与えることもあった。というより最近ではむしろ、私たちがチキンを食べるときは、ラッコ用に買った分から拝借している、というほうが正しいかもしれない。
スウェーデンではチキンは決して安い肉ではなく、特に犬にとって消化のいい胸肉は鶏肉の部位で一番高価である(日本とは反対なのだ)。ラッコはでかい犬なので、1日800gの肉を食べる。なので、胸肉の大袋を何キロも買う羽目になり、自分たちですらこんな贅沢はしたことないのに、と少し罪悪感を覚えるときもあった。

というわけで食費も獣医医療費も重なり買いたいものも我慢している。犬のための出費で最新のiPhoneや欲しいとおもっているラップトップが数台買えたはずだ。そして家の修理も完成していたはず…。
とはいえ、犬中心に自分の生活がまわっているというのはこれが初めてではない。そもそも犬に優先順位を置いているのは毎日のことじゃないかと思う。今回は病気という形だが、これまでに子犬育て、ブリーディング、競技会に向けたトレーニングなどの時は特に時間、労力、お金も相応に費やしてきた。
「でもそれは楽しいことへの出費と努力じゃないか」
と思われるかもしれないが、ま、そうですよね。しかし競技会でうまく成績がふるわなかったり、そしてトレーニングが順調にいかなかったりすると、気持ちは深く消耗する。あるいはミミチャンが「問題児」扱いされ、うちの近隣のレトリーバー社会の中で批判を浴びたのもこれまた強烈なストレスであった。それでも黙々と犬との生活を続ける。努力できるところはする。うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。結果はわからないが続ける。このときの無心の状態は、今のシニアラッコをケアしているときの感情と一致する。
自分を犠牲にしてまで、という考え方に至らないのは、おそらくこのマインドセットのためではないかと思う。割り切っているように聞こえるかもしれないが、犬は私の趣味であり、Way of Life(ライフスタイル)。ウェルフェアを全うし、一緒にドッグスポーツを楽しみ、そして健全にいてもらう。彼らのメンタルと健康をマネージメントすること自体が趣味なのだ。
今はラッコの便が気になってしょうがないので(便は健康のバロメーター!)、排便の度にスマホで撮り記録をしている。私のクラウドアルバムをうっかり見てしまった人は、その数々の写真にびっくりするかもしれない(笑)。私はラッコの毎日のうんち写真を見返しながら、
「これまでの食事管理は上手にできたなー」
と悦にひたってみたり、これはいけなかったと反省したりする。「狂ってる?」と思うなかれ。トレーニングだったら、多くの人が動画を撮り後で見返すだろう。うんちの記録もその延長線上にある。つまり犬のトレーニングも健康管理も私にとっては同じもの。そしてそのマネージメントの過程に山あり谷ありは当たり前。
生き物相手だからお金やメンタル面での出費が重なると「自分を犠牲にしてまで」という言葉が出がちだが、もしそれが趣味であり、生き方であるなら「犠牲」という言葉は使わない。たとえば、釣りに人生を捧げている人を見て、誰もそれを自己犠牲だとは言わないし、本人もそうは思わないだろう。


