文:北條美紀
[Photo by Francesco Doglio]
仕事柄、本当にいろいろな話を伺う機会がある。ただ、私が「動物に関する話を聞く耳」を持てたのは、ほんの7、8年前のことだ。自ら動物に興味をもって耳を傾けたとか、必要を感じて勉強したというのではなく、様々な状況と環境が私に動物に関する話を聞くための耳を作ってくれた。これは、私自身の人間理解に影響を与えると同時に、動物についてのクライアントの語りも数多く導いてくれた。
たとえば、親との間で築くことのできなかった愛着関係を、ペットである犬とごく自然な形で形成したり、それを支えに過酷な人生を切り抜けたりしている人がいることを知った。動物との関わりの中で、人は自分が本当に求めているものが何なのかに気付かされることが多々あることも知った。多くの人がそれぞれの形で動物の存在に支えられていたのだ。ここにそんなケースの一つを紹介したい。
※プライバシー保護のため、以下のケースの内容については抽象化や改変を行なっています。
Aさんは、30代の独身男性で、社内の賞をいくつか受賞したことのあるやり手の会社員だ。だが、ここ数年は公私ともに様々なアクシデントが重なり、うつ状態が強まったり和らいだりする状況が続いていた。休職したほうがいいだろう状態も何度かあったが、本人は断固拒否し、仕事の調整をしながら出勤していた。ところが、大きな仕事が一段落し、プライベートの問題も片付いたところで、張り詰めていた緊張が解けたのか大きく体調を崩した。上司からの勧めもあり、有給休暇を利用して2週間の休みを取ることになった。
Aさんの一人暮らしの家にはとある動物がいた(今回は犬ではない。以下、彼女という)。彼女との暮らしは長く、既に平均寿命といわれるものは超えていた。眠っている時間が多く、起きるのはお腹が空いたり喉が渇いたとき。そして、ウンチのとき。動きも随分とゆっくりしたものになっていたが、美味しいものには目がなかったし、いいウンチをしていた。そんな彼女の隣で、Aさんは何としても2週間で復調し、今までどおり働けるようにならなければと焦っていた。しかし、期限の2週間が迫っても体調は芳しくなく、焦りと休暇延長の間で苦しむ日が続いた。
「彼女を理由に休暇延長しちゃいました」
休暇終了が近づくにつれ、彼女の調子は悪化していったのだった。食べることが大好きだったのに食欲は低下し、少ししか出ないウンチもよくない状態になった。でも、Aさんが差し出す大好きな果物には必死に噛りつく。Aさんは、彼女の命が尽きるまで、彼女が快適に過ごせるようにすることだけに専念したいと思ったそうだ。
「自分のことなんかじゃなく、彼女とどう過ごすかだけでした」
[Photo by Wendi Halet]
その後、Aさんは医師の勧めに従い、有給休暇の延長ではなく断固拒否し続けてきた休職を1カ月受け入れることに決めた。その後の彼女の様子は一進一退だった。ずっと寝て、好きなものを食べて、ウンチをする。また眠って食べてウンチをする。その姿を見ていたAさんは、
「本当に自分が回復したいと思うなら、今は彼女と同じように、眠りたいだけ寝て、好きなものを食べて、いいウンチをして、また眠るんだと分かった」
と教えてくれた。Aさんの焦りは霧散し、彼女が寿命を閉じるまで「彼女のことで全身が満ち足りた大切な時間を過ごした」そうだ。確かに彼の表情は今までとはまったく違っていた。
Aさんは、「自分のことなんかじゃなく、彼女とどう過ごすかだけ」と話していたが、私にはAさんが本当に望んでいたこと、求めていたことをしたのだと感じられた。人は、動物との関わりの中で、自分が本当に求めているものが何なのかに気づかされることが多々あるのだ。Aさんは、社会的立場や常識などとはまったく無関係な、「今、ここ」で自分が一番したいことをした。そう感じてとても嬉しくなったのを覚えている。
動物は、余計なことにがんじがらめになった私たちに、本当は何をしたいのか、何をしたくないのかをとてもシンプルな形で気付かせてくれる。後悔する過去でも、不安な未来でもなく、「今、ここ」という時間にしか自分が存在していないことを教えてくれる。それは動物の持つとても大きな力だと感じることができるようになった私は、とても幸せ者だと思うのだ。
文:北條美紀
臨床心理士・公認心理師。北條みき心理相談室運営。十数万時間のカウンセリングを重ねた今でも、人の心は未だ分からず、知りたいことだらけ。尽きない興味で、日々のカウンセリングに臨んでいる。犬と人との関係を考えるために、犬に関わる人間の心理学的理解が一助にならないかと鋭意思案中。
北條みき心理相談室:www.hojomiki-counseling0601.jp