センチメンタルと保護犬

文と写真:五十嵐廣幸

ユーカリの木が生い茂る川で遊ぶ犬たち。

はじめまして!犬曰くゲストライターの五十嵐廣幸です。カンガルー、コアラ、ウォンバット、そしてカモノハシがいるオーストラリア・メルボルンに暮らして12年となります。今回は、昨今日本のメディアでよくみかける「ある風潮」について思いを巡らしてみました。

保護犬の飼い主になることを、「運命的な出会い」「その犬の過去」「人間がした酷いこと」「第二の犬生」などとして多くのメディアが発信しています。それらを伝えるのは大事ではあります。が、一部の記事では保護犬たちに対して「付加価値的な情報」をつけ、お涙頂戴や里親になる人は偉いとも受け取れるような書き方をしているように私には感じられるのです。

それらの「お涙頂戴的」「里親になる人は偉い的」なものが必要なのは、今のこの社会で「犬余り」という現状があるからとも思えます。「犬を飼える人の数≧犬の数」というバランスであれば、犬に特別な物語をつけて人間の感情に訴えなくとも、施設で新しい飼い主を待つ犬たちはそう多くならないはずです。しかし実際は、これらのやり方をしなければ、「里親になってみよう」「保護施設に行ってみよう」「募金しよう」というような気持ちになれない人が多いのかもしれません。

感情があるからこそ

私たち人間は感情の動物といわれています。感情は行動を起こす原動力のひとつとして大事ですが、時にこの感情が、むしろ犬たちの暮らしを壊すことになっているようにも感じます。たとえば「可哀想だから飼う」「可愛い犬だから買いたい」「人気の犬種だから欲しい」というような感情的な動機で犬を手に入れると、「犬がいうことを聞かないから捨てる」「もう可愛く思えないから手放す」といった結果を招くこともあるでしょう。また流行りの犬種が不適切な飼育下で大量に繁殖される大きな要因にもなっているのではないでしょうか。

・可哀想だから餌をあげる、可哀想じゃないから餌はあげない
・言うことを聞くから散歩に行く、聞かないから散歩に行かない
・お金があるから獣医に連れていく、お金がないから行かない

という感情的な動機ではなく、犬などの動物が必要とする環境や状況は人間の感情に関係なく常に提供するという福祉の価値観が必要であるはずです。犬を飼う人は「捨てられて可哀想な犬だから」「今、流行っているから」とった動機ではなく、純粋に犬を愛する気持ちと、しっかりとした計画を持って犬を手に入れてほしいと願います。

保護犬を飼うということ

近頃「犬を飼いたい人は保護施設から迎えよう」というようなキャッチフレーズを多くみかけますが、はたして犬を飼いたい人全員が保護犬の飼い主になれるのか?と疑問を感じます。

私は4年ほど前に、当時約1才のメスのボーダーコリーミックスの里親になりました。散歩やアクティビティを一緒に楽しみ、私たちの暮らしは毎日が充実していると言えます。しかし、そんな彼女も私の家に来てからしばらくは、散歩ですれ違う犬すべてに咬みつこうと向かっていったものでした。もともと犬との社交性が培われていなかったので、彼女とは他の犬は怖くないトレーニングや嫌いな犬がいても無視する訓練などをして多くの時間を費やしたり、RSPCA(王立動物虐待防止協会)の里親のための保護犬コースや、自治体にあるドッグクラブにも参加しました。幸い、私自身がそれらを大変と感じることもなく、むしろ挑戦と捉える性格だったので、彼女との生活においてそれがプラスに働いたと思います。

私は「犬を飼いたいすべての人」が保護犬を飼うことに適しているとは思っていません。また、「犬を飼いたい人=犬を飼える人」ではないとも感じています。保護犬と一口にいっても犬種の特性だけでなく、その個体の持っている社会性は様々です。必ずしも飼い主希望者が、その犬の生い立ちを引き受けながら安全かつ一緒に上手に暮らすことができる技術を持っている人ばかりではないと思うからです。

飼い主の環境ひとつ考えても、トレーニングする時間や環境、費用の負担に差異があることは否めません。もちろん、譲渡に向けて保護施設関係者は保護犬と里親の相性や住宅環境だけでなく、里親となる人の犬を扱う技術を含めしっかりと判断し、慎重に譲渡を進めている団体もあります。しかし、昨今の風潮にある「保護犬=可哀想」という感情だけで、ブームのように誰にでも里親になるよう勧めることが犬余りになっている現状に対する良い解決策とは思えないのです。

「保護犬の里親になる」「保護犬を選択肢のひとつにする」という記事は、目の前の命を助ける心温まるものでもあります。しかし、もっと重要なのは、その裏にある現実を直視し変えることではないでしょうか。里親探しという行動は、飼い主の飼育放棄やパピーファクトリーが犬を捨てる、繁殖業者が崩壊するということがあるがゆえに起こっていると断言していいと思います。保護犬が多い国や地域には最後まで犬の面倒が見られなかった飼い主が多くいること、犬の乱繁殖、商売のための犬がその国の社会や文化に存在していることの証でもあると考えるからです。

「蛇口を閉めなければ、水は常に流れてしまう」

保護団体がどんなに増えようとも、献身的なボランティアの人が長い時間活動を続けていこうとも、捨てられる犬がいる社会を変えていかなければ、まるでイタチゴッコのように「里親になろう」と永遠に言い続けなければならないでしょう。里親募集と言わないですむ文化を早く築くことが必要だと思っています。こんな言い方は適当ではないかもしれませんが、里親になることの優しさや、犬の過去は不幸だったけれども今は幸せ、というようなことが前面にでているような社会よりも、捨てられる犬や猫がいないほうが真っ当ではないかと私には感じられるのです。

皆さんはどのように感じるでしょうか?

文・写真:五十嵐廣幸(いがらし ひろゆき)
愛犬アリーといっしょに。

オーストラリア在住ドッグライター
メルボルンで「散歩をしながらのドッグトレーニング」を開催中。愛犬とSheep Herding ならぬDuck Herding(アヒル囲い)への挑戦を企んでいる。サザンオールスターズの大ファン。
ブログ;南半球 deシープドッグに育てるぞ