文と写真:藤田りか子
2013年、夏至祭をいっしょに楽しんでいるトド。
人生とは「ああ、やっぱりこういうものなのか」を思い知らされた瞬間であった。天候も最高、何もかも順調で、誰もが幸せだった。思い起こせばあれは今から9年前。スウェーデンの夏至祭。6月21日。一年で一番日が長い日。
友人達4人と湖のほとりにある彼らのサマーハウスに集まった。犬たちは、好き放題水遊びをした。その楽しい光景を見ながら夏至祭に欠かせない、シュナップス(ウォッカにハーブで味付けをしたお酒)を飲んで、ゆでた新ジャガと酢漬けニシンやサーモンを食べた。夜になっても完全に真っ暗になるわけではない。11時の薄明かりの中でろうそくをともし、ビールを飲みながら取り留めのないことを話して じんわり幸福感に身をまかせていた。犬たちは、水遊びにすっかりくたびれて、床で横になっていた。
と、そのうちの一頭、トド、私のカーリーコーテッド・レトリーバーが突然起きだし、すたすたと外にでてしまった。しばらくしても帰ってこないので様子を見に行ったら、湖に半分つかり、自分でもわけがわからない様子で、苦しそうに立っていたではないか。その時、あばら骨の後ろあたりがはちきれんばかりにふくらみまくっていることに気がついた。
私は胃捻転について「言葉」は知っていた。ワイマラナーやグレート・デーンなど、胸の深い大型犬がかかりやすいことも知っていた。が、実際の症状など何も知らずに今まで犬達と10年以上を過ごしてきた。ただし、これは尋常ではないと感じたので、その瞬間、休日夜間に対応できる動物病院に電話をして相談をした。あらためて、これが一時の遅れをも取ってはならない、命取りになる症状であることを知ったのだ。
「幸せな時」というのは、本当に「瞬間」という字をあてがった方がいいのだろう。夏至祭の夜は一気に悪夢に変わってしまった。
そしてこの夏至祭という日、大人であればスウェーデンの誰もが血中にアルコールを含ませている。こんな森の奥にて、一体誰が100km先の動物病院まで運転できるのだろう!途方にくれたのだが、友人達が必死になって「しらふ」の知人を携帯で探しあてた。夜中の2時。病院に到着するや否やレントゲンを撮り、すぐに手術に入った。生死の確率は50/50というではないか。こういうときになってやっと悲観的に考え始める私は、もう二度と生きたトドを見る事がないのか、ついさっきまでいっしょに夏至祭を楽しみ、いっしょにはしゃいだ姿はどうしてくれるんだと、この「どんでん返し」に絶望の淵に突き落とされた。
夏至祭の夜。白夜を友人とともにゆったり過ごしていたのだが…。
そして3時間後。
「手術自体は成功しました。しかし、この後の経過が生死の分かれ目になるんです。」
胃が拡張した際に周りの内臓組織が傷つけられ、壊死を起こしていたりする。そのダメージがあまりにもひどいと、機能が損なわれ死に至る。トドはその後昏々と寝続けた。まるで希望がないように思え、今度こそもう本当に覚悟をする必要があった。実は手術を始める前に、費用がかかるうえにトドは8歳半、歳をとっているから必ずしも手術が成功する訳ではない、となんとなく獣医師に安楽死を勧められていたのだ。スウェーデンでは回復の見込みがない状況のとき に獣医師が安楽死をさりげなく勧めるのはかなり普通である。これはある意味、とても善意であると思う。犬を余計に苦しませないようにしたい、そして見込みがないのにクライアントから手術代を儲けようとする意図を持たないからだ。しかし突然なことであり、私にはまるで彼と別れる心の準備など出来ていない。いや、とにかく手術を!という成り行きだった。
手術のかいがあったのは、まるで奇跡のようであった。2日後に朗報。心臓と脈拍は良好。自力で立とうとし、おしっこもするようになった。希望が見えた!
胃捻転を避けるためには食事の後の激しい運動を控える、というのは大型犬の飼い主の間であれば有名なルールである故に、さすがに今までそれをさせてはいなかった。トドは水泳の後、それもかなり後になって、少しだけ肉と野菜をもらって、その後ずっと伏せの状態で私たちの会話に仲間入りしていたのだから。
担当の獣医師も
「たいていの胃捻転は、『こうしたらなる』という例外の時に起こっているのがほとんどで、何が原因ってなかなか言えないのですよ。」
と話してくれた。手術の際に開いた胃からは、野菜がたくさんでてきたということだ。今まで野菜を与えていたが、何もおかしなことが起こったことはない…。でももしかして、これが原因になったのだろうかとしばらく後悔に苛まされていた。
「歳を取ると筋肉などが緩んで、より胃捻転にかかりやすくなります」
とも言われた。
当時7ヶ月齢のラッコ。トドとラッコは水場でたくさん遊んだ。
後で知ったのだが、イギリスとアメリカでは、この犬種、カーリーコーテッド・レトリーバーは、胃捻転の好発犬種としてリストに挙げられていた。イギリスでは、カーリーの死因の一番が胃捻転であるという。スウェーデンのカーリーコーテッド・レトリーバークラブのページにはその記載がなく(おそらくイギリスほど頻繁に起きていないからだろう)、それで私はうっかり見落としていたにちがいない。ただし、後でスウェーデンのカーリーの系統を全て知り尽くしているある知人に聞くと、トドの母親から生まれたいくつかの子孫達は、かなりの確率で胃捻転にかかっていることがわかった。トドの兄弟には7歳、9歳で胃捻転にかかり、命を落としていた犬もいた(この犬種ではオスがよりかかりやすいことも分かっている)。
というわけで、その知人は「やっぱりね」と言った。胃捻転はその病気になる因子が存在して子孫に遺伝するというよりも、胃捻転になりやすい体の特徴を持つことが、遺伝してしまう、と考えるといいだろう。胸の深い個体は、できるだけブリーディングにつかわないこと、とイギリスの獣医師はアドバイスしているほどだ。
犬種 | 胃捻転が死因となった個体数 | 全体の死亡個体数 | 他の犬種に比べて胃捻転が死因になりやすい倍率 |
カーリーコーテッド | 3 | 40 | 3·1 |
グレートデーン | 32 | 171 | 8·2 |
アイリッシュ・セター | 24 | 451 | 2·3 |
ブラッドハウンド | 25 | 82 | 13·2 |
遺伝と言われて少しだけホッとしたものだが、しかしこれもカーリーのような小さい遺伝子プールをもった「純血犬種」の定めなのか、とまた憂鬱に思えた。
ちなみにトドの母親は、カーリーによくある犬種病、癲癇を持つ子孫を一匹も出していない、股関節もパーフェクト、もちろん目の病気ももたない。気質がとてもよく、狩猟技能テストでもいくつかタイトルを残し、かつショードッグとしてもチャンピオン級のいい成績を残した。ブリーダーは健康かつ犬種の特徴を持つ犬を残そうと、最大な努力を払ってきた。そして、そのメスで数回のブリーディングを行ったのだが、胃捻転の子孫をたくさん出していることに気がついたのは、少し後になってから。というのも、胃捻転は歳を取るごとに発生する確率が増えるからだ。この辺が、純血犬種のブリーディングの難しさである。
胃捻転についての詳しい解説は、日本語のサイトでもたくさんの詳しい情報が出ているので、ここでの説明は省く。しかしひとつ言えるのは、ある犬種を飼ったら、少なくともその犬種がなりやすいといわれる病気に関してはとことん調査すべき、ということだ。自分の国だけの情報のみならず、海外の情報も一応目に通しておいた方がいいだろう。私がたとえスウェーデンのカーリーも胃捻転になるということを知っていたとしても、今回の事態がどれだけ避けられたかどうか、定かではない。しかし、病状をもっと早く把握できていたかもしれないし、あの状態を見たときの心の準備もできていたはずだ。
私がよく自分の犬に起こりうる最悪の突然シナリオ、として考えていたのは、犬が何かの拍子に飛び出し車に跳ねられることばかりだったのだが、思いもよらない突然の、それも致死的な病気もこうして存在するということを学んだ。そして食事が原因であったかどうか定かではないが、とにかく犬が口に入れるものをもっと観察すべきだったなどと、今後の犬のケアについて、いろいろと気持ちの入れ替えを、いま行っているところである。
最後にもうひとつおまけ。犬の野生の祖先であるオオカミにも、胃捻転が時たま発生するとのことだ。
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