「犬は私の人格の一部であり、一体化しています」~哲学者、一ノ瀬正樹教授インタビュー (2)

文と写真:尾形聡子

前回は、ペットの権利についての話から、殺処分問題を考える上でとても大切になってくる、”世の中を変えていく”ため、つまり、制度を変えていくために私たち個人はどのようにしていけばいいのかという考え方、取るべき姿勢についてのお話を伺いました。後半となる今回は、ペットを飼育することに対する考え、世界から見た日本、そして一ノ瀬先生の犬とのかかわりなどについて伺ったお話を紹介したいと思います。

ペットを飼うということを考えるにあたり

「以前は、番犬とか猟犬といった明確な役割があったと思うのですが、現在、みなさんがどのような動機で、どういう気持ちでペットを飼われているのかは本当にそれぞれだと思います。動物園で動物を飼うこと自体、倫理的に問題があるのではないかという議論は昔からあるのですが、ペットについても飼うこと自体が道徳的に悪であるという議論もあります。自然に反している、人間中心になりすぎているということです。」

ただし、人間に飼われていることで幸せになっているように”見える”動物もいることにはいると言います。一ノ瀬先生は一昨年、庭に入ってきた迷い猫を保護されて、今一緒に暮らしているそうです。

「うちの猫、みやちゃんなんかがそうです。ガリガリにやせ細ったその猫を保護して現在一緒に暮らしていますが、みやちゃんをあのまま放っておいたら、やせ衰えて命を落としていたかもしれません。そういう観点からみると、人間がいることで幸せになっているように見える場合もあります。でも他方では、ダルメシアンなど犬種によって特定の遺伝性疾患を発症しやすく病気がちだったりする場合もありますよね。それは、人間に飼われていることによって、逆にひ弱になってしまったとも言えます。このように、目の前に現れる現象だけから、ペットを飼うことの善し悪しを判断することは非常に難しいことでもあるのですが、ペットを飼うということは先ほど話した殺処分や死刑などの話と同じで、個人の力を超えたところで、制度として”ペットを飼う”ことが許されている状況があるということで、何の疑問もなくペットを飼ってしまっているということが言えると思います。個人の力を超えてしまうと、個人の責任を感じることなく制度や権力に個人の正当化理由を押し付ける形でペットを飼ってしまう、ということです。なので、ペットを飼うということがどういう意味を持つのかあまり考えられないのだと思います。それが人間というものの本質なのですが・・・。」

哲学研究室内。壁という壁が本で埋め尽くされていました。

ペットを飼育することで考えを広げていって欲しい

もはや人間の性は超えられないのでしょうか。人間の本質を前提として考えた場合での、先生の考える希望について次のようにお話になられました。

「私の希望としては、ペットと時間を共有している以上、そこから何かが広がっていけばいいなという希望はあります。哲学倫理の観点からすれば、肉食の問題や自然環境の問題などについて、身近な動物であるペットを通じ、リアリティを持ってイマジネーションを広げていくきっかけになるということは理想かと思うのです。たとえば、ペットとしてミニ豚を飼う人もいますよね。豚は犬と同じくらいの知的レベルを持っていますが、たとえばそのような豚を私たちは食べているわけです。肉食の問題は難しく、一朝一夕で何かをこうすべきということではないのですが、ペットを飼育していることからそのような問題についても考えてみるということはいいことだと思います。ペットをかわいがることを、人間のほかの行為と結びつけていく、という視点ですね。」

日本人は内向きになりすぎている

食べるという行為をみてみても、日本と海外とでは随分異なります。日本は、好き嫌いをせずになんでも食べるとことが美徳とされる、世界的に見れば珍しい国。しかし、海外に行くと、食べるということはかなり際どい行為であり、倫理的な意味を常に突き付けられているといえると先生はお話しされていました。このように、日本の中では一般的、むしろ常識的と位置付けられている事象であっても、世界的にみると全く違う、逆に敬遠されるようなことが日本には沢山存在しているのではないかと思うのです。

「日本はガラパゴス化している(世界の中で特殊化・孤立化している)などとよく言われるのですが、日本人は日本に閉じこもってしまいがちで今でも外国との交流が苦手ですよね。鎖国の伝統があるからなのかもしれませんが、わざわざ外国へ出なくても今の日本は日本の中だけでそこそこの生活が送れてしまうからなのだと思います。ですので、世界の多くの人がどのように考えているかということよりも、やはり国内でどうにかしようという考えに向いてしまいがちなのです。そういう意味からも、ペットや動物の扱いに対する考え方に関しても、世界の人がどのように感じているのかということには殆ど目が向かなくなってしまい、日本国内でどうにかすればいいというふうになってしまっているのではないかと思うのです。」

また、海外の人から見ると、日本人の動物の扱い方が奇異に映ることもあるのだと、次のように続けられました。

海外の人から見た、日本人の動物の扱い方

「第二次世界大戦の時の日本軍のふるまいに対する感情的なしこりが残っている部分にもあるとは思うのですが、日本人は動物の扱いが残酷だと、白人の方々から冗談交じりで言われることがあります。たとえば、庭の隅に犬小屋が置いてあって、犬が繋がれているという状況を見た時に、彼らはそれを虐待だと思うわけです。ただ、日本ではその状態が普通だったわけですよね。文化的な特徴であるとも言えるのですが。また日本では、犬を飼おうとする時には”仔犬が欲しい”となりますよね。イギリスなどでは子どもも含めて犬を飼おうとするときに、仔犬ではなく成犬をもらうということがひとつの有力な道筋として確立されているのですが、そのような点でも、日本と西洋社会との違いを感じますし、日本は犬の後進国だと言わざるを得ず、また、日本人は残酷な人種だとかげ口をいわれてしまう一因となっているのではないかと思います。」

仔犬も可愛いと思いますが、老犬の可愛さはひとしおだと思うのですけれども、と話されつつ、さらに続けられました。

「学会などで動物やペットについての問題提起をすると、たいがい、みなさん笑うんですよ。私としては真面目な話として出すのですが、軽い冗談、リラックスの時間として受け取られてしまいがちなんです。そのような状況を見た西洋の先生からは、”そこで笑うのが日本人の特徴だ。ペットの話は決して笑うような対象ではない”と言われたこともありました。この話が象徴するように、動物の話となると、日本ではその重要性において、二の次三の次となってしまっているのだと思います。その辺りにも西洋との差を感じます。」

法文2号館のすぐ近くには、キャンパス内のオアシス、三四郎池があります。

人と犬とが共生する社会をよりよくしていくためには?

「日常の楽しみとか趣味とか、そういうレベルで捉えるのではなく、動物と暮らすことには倫理的な問題が絡んでいるんだという認識を高めていくと違ってくると確信しています。杓子定規的に道徳などを考えるのは楽しくないだろうと言う人もいるかもしれませんが、道徳や倫理というのは、いろんな生き物たちが共生していくためのちょっとした心遣いにしか過ぎず、クリアできないようなことではないのです。動物が痛がっているときは、人間と同じように本当に痛いんだ、ということをそのまま分かってあげるということですね。その辺りから、だから動物と暮らすことには倫理が関係しているんだという理解を持って意識を高めていけばいいのではないかと思います。考えてみれば当たり前のことですね。それで犬に関わる問題のすべてが解決できるわけではないですが、たとえば、ペット・ロスなどは解決できませんが、現状はかなり改善されるはずです。」

ペットを飼うことで、いろいろなことを考え広げていくきっかけになるのが願いであると一ノ瀬先生は強調されていました。

「そもそも動物と接することは、人間の家族と暮らしていることとはちょっと違うわけですからね。犬から学ぶことはいっぱいあると思います。」

これまでの動物とのかかわり

一ノ瀬先生は馬という動物に関心があり、接したいと思う気持ちから、大学時代には馬術部に所属していたこともあったそうです。その時に初めて馬と接触をもってから馬に対する想いが消えず、できれば今でも馬と一緒に生活したいと思いつつも、住宅事情やご近所との関係もあることから、日本で馬を飼育することはなかなか難しいと考えていらっしゃるそうです。

「決して馬の代替ではないのですが、小さいときにずっと犬を飼っていたこともあり、犬を迎えようと思ったんです。たまたま里親の譲渡会があるという記事を目にして脚を運んで迎えたのが、現在の愛犬しずかちゃん(12歳)です。」

しずかちゃんを迎えた後、先生は牛若と名付けた愛犬と出会うことになります。ホームセンターに併設されているペットショップに売られている柴犬の姿を何度も見かけてはいましたが、その時点ではしずかちゃんがいたのでさらにもう一頭飼おうとは思っていなかったそうです。いつまでも売れないなあと買い物のたびに横目で見ていたところ、ある日、店頭ではなく店の奥のほうへ例の柴犬がひっこめられていたのに気付いたのだそうです。

「あの奥にひっこめられてしまった犬はいったいどうなってしまうんだろう・・・と想像し始めてしまい、いてもたってもいられなくなってしまいました。店員さんはもっと若い仔犬をと勧めていましたが、そうではなく、奥にひっこめられた牛若を譲ってもらうことにしたのです。」

ある意味で、一ノ瀬先生によってペットショップから救出されたとも言える牛若は、2009年、10歳の誕生日を迎えた当日に異変を見せてから、およそ4ヶ月後に腸の腺ガンのため息をひきとりました。そして愛犬牛若の死が、来年発刊予定の先生の著書、『死の所有』(2011年刊行済み)を書く最大の要因になったのだそうです。愛犬の死がダイレクトに仕事にかかわってきたとお話しされる先生に、日常的にどのようにして仕事と愛犬とかかわりを持たれているのか尋ねてみました。

「仕事という面では、犬との散歩中にいろいろなアイディアを得られることがあります。犬との散歩は仕事をする時間でもあるといいますか。散歩中に犬に話しかけて、論文のアイディアなどの考えをまとめることもあるんです。応答はしてくれませんけれども聞いていてくれていると思います。要するにひとりごとの延長なのでしょうか(笑)。」

2004年のひとコマ。愛犬しずか(左)と牛若(右)と一緒に。

そして最後に。一ノ瀬先生にとって犬とはどのような存在であるのか、静かに語ってくださいました。

「私の手前勝手な理解でいえば、犬は自分の人格の一部で一体化しているという感覚です。しずかちゃんや牛若くんにとっては迷惑かもしれませんけれど。ですので、牛若くんが亡くなる時には、身体の一部分がはがされるような感じを抱きました。尋常ならざる悲痛でした。そうですね、犬は人格の一部、自分自身である、そういうイメージです。」

(本記事はdog actuallyにて2010年11月1日に初出したものを一部修正して公開しています)

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愛犬、牛若の死が大きなきっかけとなって著すに至った『死の所有-死刑・殺人・動物に向きあう哲学の挑戦-』は、インタビューをした翌年、2011年1月に刊行されました。

また、一ノ瀬先生は東京大学農学部構内にあるハチ公像建立の発案者であられます。詳しくは「ハチ公と上野英三郎博士の像を東大に作る会」のウェブサイトをご覧ください。そして、それに合わせて出版された『東大ハチ公物語』の編者をされています。

死生学のニューズレターには、一ノ瀬教授が犬について書かれたエッセイ『哲学者の顔』が掲載されています。こちらは今すぐ読めますので、是非ご覧になってください。

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