文:尾形聡子

[photo by Anna Averianova]
犬の健康に静かに広がっている変化があります。肥満、糖尿病、関節疾患、腫瘍…これらは従来、人の生活習慣と深く結びつく「生活習慣病」として認識されてきましたが、いまや犬や猫といった身近な動物にも広くみられるようになってきています。さらに注目すべき点は、この現象が犬や猫にとどまらず、家畜、野生動物、水生動物にまで広がっているということです。じつに多様な動物種で「非感染性疾患(Non-Communicable Diseases:NCD)」が増えているという報告が相次いでいます。
感染症と違い、NCD は「うつらない病気」です。しかし、その広がりは感染症に匹敵するほど深刻で、地球規模の健康課題として国際的な議論にも組み込まれています。SDGs(持続可能な開発目標)の目標3「すべての人に健康と福祉を」でも、感染症対策だけでなく非感染性疾患の予防と治療へのアクセス向上が明示されています。NCD がもたらす社会的・経済的負荷は極めて大きく、生活環境・社会構造・経済格差と深く関わるため、国際的な議論なしには解決できない課題になっているためです。
犬や猫に広がる非感染性疾患の波が、家畜や野生動物にまで及んでいる背景には何があるのでしょうか。なぜ、うつらない病気が、いま、動物界全体に広がっているのでしょうか。
ギリシャのアテネ農業大学の Antonia Mataragka氏 は、こうした動物界に広がる慢性疾患の実態と背景について、「Risk Analysis」にて研究の詳細を報告しています。今回はその研究をもとに、犬から見えてくる、動物・人・環境の健康のつながりを紹介したいと思います。
NCDとは何か、生活習慣病との違い
まず、「生活習慣病」と「非感染性疾患(NCD)」という言葉を整理しておきます。
生活習慣病とは、人の領域で用いられてきた概念で、食事・運動・喫煙・飲酒・ストレスといった生活習慣が病気の発症や進行に深く関わる疾患を指します。典型例として、糖尿病、高血圧、脂質異常症、肥満、心血管疾患、がんなどがあります。
一方、NCD はより大きな枠組みになります。肥満、糖尿病、心疾患、がん、慢性呼吸器疾患、腎疾患、関節疾患、メンタルヘルスなど、人や動物を問わず「感染によらず、複合的な要因によってゆっくり進行する病気」を包括しています。つまり、生活習慣病は NCD の一部に含まれますが、NCD には生活習慣だけでは説明できない、遺伝、環境、社会構造、生態系の変化といった幅広い要因が関与します。
犬の健康を見れば、この広い枠組みが理解しやすいでしょう。たとえば肥満の犬の割合は世界的に高まり、その肥満が糖尿病、関節疾患、心疾患、腫瘍のリスクを押し上げています。純血種の遺伝的な弱さや、都市環境での運動不足、高カロリー食の摂取など、「人間社会が作り出した生活環境・社会構造」が犬の身体に可視化されているとも言えます。

[photo by Kevin Charit]
なぜNCDが増えているのか、動物界に広がる共通の背景
この構図は犬だけにとどまりません。
家畜では、乳牛の 30〜40% が出産直後にサブクリニカルケトーシス(症状が表面化していないが、体内のケトン体レベルが上昇している状態)に陥り、乳量が減少するという報告があります。豚の 20% に関節疾患がみられ、密飼育や集約生産による慢性ストレスが代謝や行動に影響しています。野生動物では、汚染水域に暮らす魚類や海洋哺乳類の 15〜25% に肝腫瘍が見つかり、都市部のキツネやアライグマは人の食べ残しによって代謝異常を示す、都市型メタボと呼ばれる現象も報告されています。
これらは一見、別々の事例のように見えますが、実は共通した背景があります。論文では、動物の NCD を引き起こす主要因として、以下の大きな4つの要素が挙げられています。
- 遺伝的素因(生物学的感受性)
- 生活環境・飼育環境の変化
- 汚染物質・化学物質曝露(内分泌撹乱物質や重金属など)
- 気候変動・生態系ストレス
これらの要因はそれぞれ独立して存在するわけではなく、複雑に絡み合いながら「個体 → 群れ → 生態系」へと連鎖し、動物界全体に慢性疾患のリスクを押し広げています。
ワンヘルスとエコヘルスを統合したアプローチへ
この問題を理解するうえで欠かせないのが、ワンヘルスとエコヘルスという2つの概念です。
近年よく耳にする「ワンヘルス(One Health)」は、人の健康、動物の健康、そして環境の健康が相互に関連しているという考え方です。もともとは人獣共通感染症など感染症対策の文脈から発展してきましたが、NCD のような慢性疾患を扱うには、もう一段広い視点が必要だと論文の筆者は述べています。
そこで重要になるのが「エコヘルス(EcoHealth)」です。一般的に「エコ」というと「環境に優しい」「省エネ」といったイメージで使われていますが、本来は ecology(生態学)に由来する言葉です。エコヘルスは、生態系そのものの健全性が人や動物の健康の土台であるという考え方で、生態系の変化、資源の循環、水・土壌の質、気候、都市構造など、広範な社会と生態系のつながりを重視するものです。
論文の筆者が提案しているのは、このワンヘルスとエコヘルスを組み合わせるアプローチです。ワンヘルスが「医療・公衆衛生・獣医」の視点を中心に据えるのに対し、エコヘルスは「生態系・社会構造・環境変化」というより大きな枠組みを扱います。動物の NCD は生活習慣だけの問題ではなく、遺伝、汚染、気候、生態系の変化、都市化、産業構造などが複雑に絡むため、ワンヘルスだけでは説明し切れず、エコヘルスだけでは対策が限定されてしまいます。両方の視点を統合することで、初めて慢性疾患という、見えにくい問題に立体的にアプローチできると筆者は述べています。
この統合モデルは、病気を「個体」単位で理解するのではなく、「個体 → 群れ → 生態系 → 社会・政策」という多層的なレベルで捉える点が特徴です。犬の肥満を防ぐには、飼育環境だけでなく都市構造や気候の変化を考慮する必要があり、家畜の代謝疾患を減らすには飼養環境の改善だけではなく畜産システムの持続可能性が問われます。野生動物の腫瘍を防ぐには医療ではなく、化学物質や水質の管理といった環境政策が鍵を握る、という考え方です。

[photo by Cavan for Adobe]
犬に映し出されている、未来の健康
非感染性疾患はゆっくり進むため、目に見えにくく、つい後回しにされがちです。しかし、静かに進行するこの波こそが、世界の動物と人の健康にとって大きな課題になりつつあります。
犬は人に最も近い伴侶動物であり、同じ都市の中で同じ空気を吸い、同じ生活リズムの中で暮らしています。その近さゆえに、犬の健康は地球の健康を真っ先に映すシグナルになり得ます。犬を通して家畜の健康問題を見渡し、野生動物の未来に思いを寄せ、人の健康にも視線を向けることで、私たちはより広い健康観を持つことができるのではないでしょうか。
犬の肥満を予防することも、都市のごみ管理を改善することも、畜産のあり方を見直すことも、生態系への負荷を減らすことも、すべてが「未来の健康をつくる行為」につながります。非感染性疾患という、うつらない病気の広がりは、人と動物と環境のあいだにある確かなつながりをあらためて浮かび上がらせています。健やかな未来に向けて、私たちはどのような健康観を育てていくべきなのでしょうか。
【参考文献】
・Beyond Infections: The Growing Crisis of Chronic Disease in Animals. 2025
【関連記事】


